ジュゴンの家・日誌
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 口 座 名  西 陽子 まで
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西 陽子
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6月@



6月7日(土)

第96回 金曜集会
今日はやんばる訴訟へいっている人もいるのでいつもより少し少なめの22人でした。
ジュゴンの家は篠原さん、沙織ちゃん、ようこちゃんで参加。国会前での有事法制反対の様子を話すようこちゃん。 イラクへ行ってきました!
昨日は辺野古に行きました。
と沙織ちゃん
伊江島のわびあいの里へいった話をする篠原さん
今、国会前ではジュゴンの家のアリちゃんたちが、有事法制に反対しています!
「命どぅ宝」を歌うしんやさん。
イラクへ行っていた正博さんと夏芽さんが明日帰ってきます。みんなで空港に迎えにいきましょう。
正座して真剣な顔で話をきく沙織ちゃん 有事法制の怒っています。とにかく今日は金曜集会に来なきゃと思って来ました。イラク攻撃を終えたとアメリカはいっていますが普天間は静かになりません。日常的に基地に抗議していくための金曜集会だと改めて思っています。と佐喜眞さん。


 有事法審議の本会議はテレビではほとんど放送されていません。放送するまでもないということですか。小泉首相は以前は有事法制のことを出すのはタブーだったが時代がかわった、と言いました。私は悪く変わったと思っています。常に半分有事の中にいる沖縄、憲法に違反しているこの法律に従う必要はありません。抵抗権をもってくいとめる努力をしていきましょう、と修さん。
 
修さんから善次さんへ
マイクをバトンタッチ
前比嘉姿勢の時には基地に関して宜野湾市に対して出していた意見や苦情が市長のところまでいってなかったことが分かりました。
 現伊波市長はどんな小さなことでも、市長まで話を市長まで届けるようにと言っています。善次さん。
辺野古の様子を報告する薫さん。
宜野湾の小学生とおじぃとの触れ合いがとてもよかったです。意欲的な先生や子ども達を見て希望が湧いてきました。
西尾牧師 閉めはしんやさん。
知念岬公園へ
感想文を書きながら寝ちゃった沙織ちゃん 篠原さんは柵を乗り越えてヤドカリをさがしています。 夕方、那覇空港。沙織ちゃんは横須賀へ帰ります!篠原さんがクッキーをプレゼント。「ありがとー!またね!!」
沙織ちゃんの沖縄日記

6月5日(木)
 今日は胸いっぱいの一日だった。朝早く辺野古に連れて行ってもらって、違法測量船を見た。海をこわそうとする測量船と、漁を終えたふうふの船がとなり同士で作業していてとても変な感じだった。 
 夕方に宜野湾の小学生といろんな人の話を聞いた。晋くんの話はすごく感動した。ジュゴンを見たことから晋くんが始まっている。わたしもなんとなくイラクへいったけど、そのことが私の始まりになるかもしれない、と思った。
 琢磨さんの話はすっごく思いが伝わってきた。普天間基地の移設先が名護東海岸となった時、普天間基地がある宜野湾の人達が名護に来て、基地を引き受けなくてもいい、一緒に基地をなくしていこう、と琢磨さんたちに言った、という話が心に残った。
 嘉陽のおじぃの話はとてもおもしろかった。
 1人の女の子が話した平和宣言では基地に入ったら犬にかまれるか逮捕される。私たちの土地なのにおかしい、と言っていた。
 最後にみんなが月桃の歌を歌った。私はすっごい感動してまじ半泣きだった。嘉陽のおじぃも小学生に「ありがとう、ありがとう」と言っていた。
 帰りの車の中から見えた基地の迷彩トラックはすっげー汚く見えた。
 おじぃやおばぁが今まで培ってきたパワーと小学生の生まれたばかりのパワーが合わされば、百万力だ!すっごいなー。有事法制許せない!戦争したい人達は自分らで素手で戦ってこい!
晋くんの「命を守る会」日誌
6月6日(金)

・違法海底地形調査は大型の漁船「啓丸」に載って8:00に出航し、5:30頃、引き上げていきました。9日から潜水調査も始めるという。絶対に許せない!

 辺野古は8時になるとキャンプシュワブからの「アメリカ国歌」と「君が代」が聞こえてきます。いかにも「私達が絶対だ」といわんばかりに歌が響きます。軍隊は絶対なんかじゃない。
 「軍隊は住民を守らなかった、それでも軍隊を認めるのですか」と、沖縄戦がもう一度この世界に問いかけている。

 辺野古の人々がいかに毎日を不安で暮らしているのか、そんな事は何も考えず
有事法制をこの政府は通した。朝、おじぃの畑に寄ると「晋!僕はいまこの国が大変な所に来ていると思うよ。君がそういう中で青春を投げ打って、平和を考えている事、昨日それを感じた。僕は明日いるのかと考えて、毎日幸せを探して歩いている。だから君が支えになっているんだ。君と君につながる人々を僕は信用する!君のファンを増やすために僕は努力する事にしたよ。いいかい?」とおじぃ。「ありがとう、おじぃ」と僕。

 おばぁ達も繰り返し「戦争は絶対にいけない」と繰り返していました。小禄さんは「わったー達は見てきたんだよ、日本軍が兄弟や親を殺す所を。この国の政治家は民主党はもう一度それを繰り返そうとしている。許せないさ!!」と力を込めて話をしていました。戦争を知っている沖縄、その沖縄を日本の人々は知っているのか、沖縄とそこで今もなお戦争に苦しむ人達を知れ!有事法制反対!!
うららちゃんの教習所日記(まもなく終了予定)
6月2日(月)
 今日は原付の教習です。アクセルグリップをまわす力の加減がわからなくて急発進してしまいました。スピードを調節できずガクガク。ハンドル操作もぐらぐらでした。かなり危なかった。原付には乗らないようにしよう・・・!(乗るなら練習しなきゃ。)

6月3日(火)
 今日は学科で応急救護処置をやります。二人一組になって、救護処置用の人形に人工呼吸や心臓マッサージをします。処置の方法を知るのはいい事だけど、使うような事故が起こらないようにしたい。

6月4日(水)
 高速道路に乗りました!金武まで行きました。緊張したけど楽しかったです。80キロで、走行位置を微調整しながら走りました。(高速を降りてからちょっと失敗・・・。)

6月5日(木)
 今日が最後の乗車になるはずだったけど最後の時間のみきわめで落ちてしまいました・・・。くおぉ!次で受かって卒業検定を受けるぞ!!

6月6日(金)
 午前中は瀬だけで琢磨さんのじゅごんの里のお手伝い。三重県から修学旅行の高校生達が来てカヌーをしました。カヌーや手作り貝細工にみんな喜んでました。料理教室では琢磨さんの奥さんとはつねおばあが生徒達に沖縄料理を教えていました。生徒達が帰ったあとで、みんなでカヌーの片付け。浜とじゅごんの里を4往復ぐらいしてカヌーを運びます。降ろした後は水洗い。里にある井戸(と水道)を使って1つ1つ洗う。洗ったものは元の位置に戻す。やるのは楽しいけどカヌーを準備するというのは大変だなぁと思いました。終わってから、里で琢磨さんの奥さんが作ってくれたお昼を食べました。おいしかった!おみやげに今日作ったさんごのアクセサリーをもらってきちゃいました。
 平良夏芽さんの  イラク派遣団報告 
HP「イラクからの報告」より転載
詳しくはこちら→ http://www.ne.jp/asahi/cyura/kiyoko/iraq030527.html


6月6日(金)AM1:10(日本時間)電話連絡

平良と島田は、無事アンマンに到着。
白井は、バグダッドに残っている。


6月6日(金)20:00(日本時間)電話連絡

3時間後の飛行機でヨルダン・アンマン空港を発つとのこと。
元気にしてる?という問いかけに、島田さんも二人とも元気だと答えた。

この後帰国の予定
6/7(土)
 2:15AM(日本時間) アラブ首長国連邦ドバイ空港着
 7:30AM(日本時間)         〃         発
 17:25(日本時間)   関空着
 20:00(日本時間)   関空発
 22:00(日本時間)   那覇着(ANA)

夜遅い時間ですが、那覇空港に出迎えに来られる方は是非来て下さい。
国内線 建物向かって右側のANAの出口から帰ってきます。

更新 2003年6月6日 金 14:34
県民に怒りと不安/有事関連法成立
写真説明:有事関連法案の
危険性を訴えるビラを配り、
成立反対を呼び掛ける
平和市民連絡会のメンバーら
=5日午後、那覇市の沖縄三越前

 沖縄戦が終結した6月、有事ですべての国民に協力を求めることを戦後、初めて法制化した有事関連法案が6日成立した。平和な21世紀を訴えてきた県内の平和団体の関係者は「戦前と同じ雰囲気」と悲嘆に暮れ、「成立しても法律を実行させない反戦運動を強めたい」と強調した。教職員組合や街中の女性たちは「子や孫を戦場に行かせたくない」と日本の針路を憂えた。

 沖縄戦記録フィルム一フィート運動の会事務局長の中村文子さん(89)は「周辺事態法や国旗国歌法が通過する度に第3の戦前と言い続けたが、今切実に思う」と有事法案成立に深いため息をついた。中村さんは「細かい中身が分からないまま成立させてしまったが、権力の手だ。戦前のように言論の自由がなくなり、思ったことが言えなくなる。本当に怖い」と声を落とした。

 沖教組の兼城功委員長は「教え子を再び戦場に送らないことを理念に、教育を進めてきたが、有事法案の成立により、戦争ができる国づくりが加速されることになり、怒りが込み上がる」と戦後教育が否定されるとの危機感をあらわにし、「いかなることがあっても有事法制の廃棄を目指し運動を展開する」と強調した。

 孫を抱いて買い物に来た嘉数時子さん(58)=那覇市=は「(有事法制を考えると)母から聞いた沖縄戦にどうしてもつながってしまう。戦争につながるなら、有事法制はない方がいい」と話した。那覇市に住む80代の女性は「戦争はよく知っている。自分の子、孫を戦場には絶対行かせたくない。しかし、北朝鮮の拉致問題などから国を守るためには、嫌でも賛成しないといけないと思う」と複雑な表情で話した。

 沖縄平和運動センターの崎山嗣幸議長は「沖縄に集中した戦時体制をつくる法律だ。米国が他国と紛争を起こせば、日米同盟を結ぶ日本は有事ととらえることになる。米軍基地が集中する沖縄に負担は集中することになり、再び沖縄県民が戦争に巻き込まれ、犠牲になる」と警戒した。崎山議長は「背景に憲法を空洞化し、なし崩しに改憲に向かう狙いがある。成立しても法律を実行させない反対行動を展開する必要がある」と訴えた。

◇審議は不十分 残念/稲嶺知事

 稲嶺恵一知事は6日午前の定例記者懇談会で、有事関連法の成立について「国民の意見が十分に反映されず、議論のないまま(法案が)通るのは大変残念だ」と遺憾の意を示した。

 有事の際に港湾や空港の軍事目的の使用を県知事として許可するかについては「難しい問題で、今すぐ答えられない」としながらも国民保護法制の十分な審議と米軍基地が集中する沖縄の状況を踏まえるよう政府に要望していく姿勢を示した。

 知事は法案成立に「審議は広く国民の意見を聞き、十分に議論をすることが大切だと言ってきた。しかし国民の意見が十分に反映されず、議論のないまま通るのは大変残念だ。重要なのは国民保護法制だ。同法制については国民の立場に立って広く、深く十分な議論をしていただきたい」と述べた。

 ただ、有事法制そのもについては「まったくルールがないままに超法規的措置で動くことが問題だ」などとも述べ、法制整備には理解を示した。

 基地が集中する沖縄への影響については「他府県とは事情が違う。国民保護法制が決まらない前では予測不可能」とした上で、有事の際に港湾、空港の軍事使用を許可するかについては「県は現在でも緊急を除いての軍事使用は認めていない。沖縄の基地の過重負担、地位協定、日本の外交、防衛、安全保障の問題など、この機会に広く議論を深め国民がこうした問題に向き合ってほしい」と強調した。


辺野古で平和集会/宜野湾市立長田小学校 更新 2003年6月6日 金 10:11

 【名護】「沖縄から基地をなくして」―。普天間基地を抱える宜野湾市立長田小学校(普天間朝光校長)の6年生74人が5日、普天間代替施設移設先の名護市辺野古の海岸を訪ね、ジュゴンがすむ海の自然を学び、平和集会で基地建設反対を訴えた。

写真説明:守る会の話を聞く
長田小6年生ら
=5日、名護市辺野古の海岸

 同校6年の2クラスは総合学習を「愛と平和と命の学習」と位置付け、1学期は「平和」をテーマに沖縄戦や普天間移設問題を学習。その一環として戦跡や基地を巡る2日間の修学旅行を組み、初日に辺野古を訪ねた。移設に反対する「命を守る会」ともファクスを交わし、ジュゴンの生態や反対運動の学習を重ねた。

 命を守る会の金城祐治会長は「平和と自然を守る心を育てて」とあいさつ。同会の富田晋さんがジュゴンを目撃した様子を話し「基地を造らせないことできみたちの命を守りたい。学んだことを伝えて」と呼び掛けた。ジュゴン保護基金の東恩納琢磨事務局長はジュゴン保護区設定の運動などを説明した。

 引き続き開かれた平和集会で桃原唯さんは「ジュゴンが住む海にヘリポートができないようにしよう」と開会の言葉。久田希保さんが「基地は移してもなくならない。米軍基地は人を殺す道具。1秒でも早くこの島からなくして」と訴える平和宣言を読み上げた。

 引率した玉城和機教諭は「自分たちが嫌な基地を、辺野古に押し付けたくないという思いを生徒らはしっかりと持っている。辺野古訪問も生徒らの提案」と話した。

<2003年6月6日 朝刊 2面>

辺野古沖ボーリング作業/9日から潜水調査

 那覇防衛施設局は名護市辺野古沖で実施するボーリング地質調査と海象調査に先立ち、九日から潜水調査を実施する。調査結果を踏まえ、環境省や専門家の助言を得た上で作業計画を作成して公表。手続きが終了次第、県に海域使用の申請を行う方針。

 潜水調査は三週間程度を予定。六十三カ所で実施するボーリング地質調査や海象調査の前に海底の状況を踏査、写真などの基礎資料を収集する。

 作業は水深の程度ごとに三区域に分けて行う。

 施設局は、国の天然記念物ジュゴンや海草藻場・サンゴへの影響を可能な限り回避、低減するのが目的で、「実施に当たっては海草藻場・サンゴの保全に十分留意する」と話している。

 施設局は当初、五月末にボーリング調査に着手する考えだったが、名護市議会などから「環境への十分な配慮」を求める声が相次ぎ、環境省や専門家の意見を踏まえた作業計画の策定と公表を決めた。並行して進めている環境影響評価(アセス)の手続きである「方法書」作成は予定通り七月をめどに進めており、スケジュール自体に影響はないと説明した。

 更新 2003年6月7日 土 10:19
やんばる訴訟で大田前知事に賠償命令/違法な公金支出指摘

ヤンバルクイナなど希少生物が住む本島北部の農地開発と林道工事は関連法に違
反するとして、市民らが大田昌秀前県知事(参議院議員)らを相手に両事業に支出した公金約3億7800万円の損害賠償などを求めた住民訴訟(通称・やんばる訴訟)の判決で、那覇地裁(清水節裁判長)は6日午後、事務手続きの違反を厳しく認定、大田前知事に約3億2800万円を県側に賠償するよう命じた。また、稲嶺恵一知事が、前知事に損害賠償請求をしていなかった行為も違法と認定した。

 訴訟対象となっていたのは、国頭村内で既に工事が完了している「団体営農地開発事業辺野喜地区」(農地、28・4ヘクタール)、「広域基幹林道奥与那線」(林道、14・2キロ)の二つの公共事業。

          
写真説明:判決後、裁判所前で勝訴を
喜ぶ原告側の大西裕子弁護団長
(左から2人目)ら=6日午後1時半ごろ、
那覇市樋川の那覇地裁

 判決理由で清水裁判長は林道について「開通すると、森林の原状回復が困難となるのに、保安林解除の手続きをせず拡幅したのは森林法違反にあたる」との判断を示した。

 農地については1988年度から96年度に事業額や規模を変更した際、「県知事の認可を得ずに事業計画の変更にかかる工事をしており、土地改良法に違反する」と述べた。

 大田前知事の責任については「是正措置を取らず、違法な公金支出をした過失がある」とした。その上で、県財産を管理する稲嶺知事には、前知事に損害賠償を請求する責任があるのに怠っている、と指摘した。

 一方、原告側が開発が文化財保護法や種の保存法に違反するなどと主張した点については「事業の影響は軽微。文化庁長官の許可がいるとまではいえない」と判断した。自然享有権などについては「個人の権利として、実定法上確立しているとはいえない」と認定しなかった。

 訴えていたのは、自然保護団体「沖縄・山ばる・海」(玉城長正代表)の会員ら17人。

◇“完全勝利”に涙/原 告

 「完全勝利。やんばるの自然が守られる」。やんばる訴訟の原告団、弁護団は6日、“二人三脚”でつかみ取った勝利を喜び、涙を流した。原告団長の玉城長正さんは「世界に誇れる生物の多様性を守るため、やんばるの森を世界遺産にしたい」と興奮した口調。弁護団の大西裕子団長は「被告は控訴しないでほしい。全国にも大きな警鐘を鳴らすもので、自然保護活動への大きな力になる」と判決を評価した。

 海の写真家として知られ、訴訟の中心メンバーだった故吉嶺全二さんの妻で原告の1人、繁子さん。「うれしい。完全勝利だ。彼(夫)は勝利を信じていたと思う。裁判所に来る前に、原告団16人で仏壇に線香をあげてきた」と話した。勝訴を聞き、自然と涙があふれ、ハンカチで何度もぬぐった。

 繁子さんは地裁の玄関ロビーで、支援者らに囲まれ握手攻めにあった。「手付かずで残っているやんばるの自然を子孫に残していきたい」と語り、自然保護の取り組みへの誓いを新たにした。

 原告の平良克之さんは「この判決は、現在行われている事業、これから行われる事業の検証にも役立つだろう」と意義を強調。真喜志好一さんは「判決は住民と行政が自然保護のため協力するよう求めている。これをきっかけに行政がより良くなることを期待する」と話した。

 弁護団は、大西団長以下全員が大阪弁護士会所属。弁護団結成のきっかけは、7、8年前に弁護団の関根孝道さんらがあるシンポジウムで、故吉嶺さんと偶然出会ったことだった。当時、県内の弁護士は、知事を訴える裁判にちゅうちょしている状況だった。故吉嶺さんの熱意に負けて断れず、大阪で弁護団を組織。以来、やんばるの森で学習会を開くなどして、原告、支援者らと交流を深め、“手弁当”で訴訟に取り組んだ。

 大西団長は「(勝訴は)私の弁護士人生でトップ・スリーに入る。弁護士は誰でも裁判で勝ちたいと思うが、今回はどうしても勝ちたかった」と話し、笑みを浮かべた。

◇農地は遊休化、山には不法投棄も…

 【国頭】やんばる訴訟の原告勝訴判決に対し、農地開発事業を進めた国頭村の比嘉基和助役は6日、「大変厳しい」と重く受けとめ、「環境への配慮をこれまで以上に積極的に進めたい」との考えを示した。

 提訴された辺野喜地区の農地開発事業は村を事業主体に、県と国の補助で実施。農地の一部は遊休化しており、雑草やマツが生い茂っている。激しい雨で表土が流され、荒れ地となっている場所も。

 比嘉助役は一部遊休化を認めながら「ダムで失われた農地の代償として地元の要求に基づく事業。完了に長い年月を要した間に、高齢化、農業離れが進んだ」と事情を明かし、「村外からの入植など農地利用を図る」と説明。その上で「自然保護は時代の流れ。環境に配慮した事業実施を心掛けたい」と述べた。

 一方、林道を利用する立場の国頭村森林組合の大嶺進一組合長は「林道は必要」とする従来の見解を重ねて強調。「判決は残念。一般道路と利用頻度を単純に比較できない。

以前より減ったとはいえ材木の伐採、搬出があり、管理のためにも林道は必要」と理解を訴えた。

 だが、林道について北部自治体の役場関係者は「行政の立場にいながらも、あの林道が本当に必要だったのか疑問だ」と話す。林道完成後は捨てネコやごみの不法投棄も増えたと言い、「マイナス面ばかりが目立つようになった」という。


(先月、玉城長正さんにジュゴンの家もヤンバルの山を案内してもらいました)

<2003年6月6日 夕刊 7面>

「普天間」嘉手納統合案「辺野古建設が前提」/名護

 名護市議会(宮城義房議長)六月定例会一般質問が六日、始まり、米軍普天間飛行場の名護市への受け入れに関連し、自民党の下地幹郎衆議院議員が提示している嘉手納基地統合案について、市の徳本哲保企画部長は「案は承知はしているが、現状はそういう環境にないのではないか。市としては、辺野古沿岸域への代替施設建設を前提として対応していきたい」と、現段階では同案の実現性に否定的な見解を示した。

 嘉手納統合案について、市が市議会で答弁するのは初めて。徳本部長は「基地問題については、さまざまな意見が提供され、国民的な議論の基に実現することは極めて重要」と案については理解しつつ、「(十五年問題を含み市が要求している)七条件について、粘り強く実現を求めたい」とも述べ、方針の変更はないことを示した。

 大城秀樹市議(公明)の質問に答えた。

<2003年6月7日 朝刊 1面>

普天間飛行場の5年内返還へ新機関/宜野湾市長表明

 米軍普天間飛行場の返還問題で、伊波洋一宜野湾市長は六日、公約である「五年以内の返還」実現の道筋を探るため、有識者らから意見を募る新たな機関を設置する考えを明らかにした。「五年以内の返還を実現するには、市民が共通認識を持つことが重要。県民世論まで広げるための第一段階としたい」と述べ、八月にも発足させる。

 この機関は国際情勢や米軍の動向を踏まえながら、日米両政府への訴え方や県民の世論づくりなどの具体策を検討するのが目的。市内の各界代表をはじめ、学識経験者や基地問題にかかわる市民団体など、十数人から二十人で構成する予定だ。

 定期的な会合にはそのつど講師を招き、市民の参加も広く呼び掛けていく。伊波市長は「新たな機関はオープンな場で運営し、五年以内の返還実現を市民と一緒に考える場にしたい」と話している。

 事務局は市基地政策部に置く方針。「現在、メンバーの選定などは検討中だが、八月ぐらいからはスタートさせたい」との意向だ。




6月6日(金)

うららちゃん日記
今日は、琢磨さんの「ジュゴンの里」のお手伝い。
子ども達がカヌーをしに来るので、琢磨さんのアシスタントをします。

昨日で自動車学校での実車をすべて終え、月曜日に卒業検定を受ける予定だったうららちゃん。もう1時間乗ることになりました。なんとか来週中には免許とれそうです!
晋くんの「命を守る会」日誌
子ども達が「命を守る会」前に集合! 辺野古の海で話をする嘉陽のおじぃ キャンプシュワブを背に晋くん
琢磨さん

6月5日(木)
 調査船の監視が終わった後、さおりちゃんを海に連れて行って辺野古の事を一通り説明しました。さおりちゃんは辺野古の海、初体験で楽しそうでした。良かった。
 その後、宜野湾市の小学校の生徒が74人来るというのを聞いて、辺野古のおじぃもおばぁも来ていたし、南部からはかおるさんと岡田さん、娘のやっちゃんが来ていました。 僕は話す内容と司会進行の流れを一通り頭の中で整理して、小学生を迎えました。

 最初に祐治さんがあいさつをして、次に辺野古の海を小学生に体験してもらいながら散歩。その後、僕が「ジュゴン発見記」をしゃべり、次に琢磨さんがジュゴンの詳しい説明と「これからの沖縄人は基地との共存、依存では無くて、ジュゴンと共に生きていく道を歩んで欲しい」と訴え、最後は嘉陽のおじぃが「真心の大切さ」について子供たちに語りました。

 その後、小学生がここまでくるまでに学んできた「戦争」の事を踏まえてミニ平和集会を開きました。
小学生が読み上げた「平和宣言」では僕もとても感動しました。「戦争をするのも人間、戦争を止めるのも人間、私達は戦争をさせないために行動していきたい」と小学生6年生が平和宣言を読み上げていた、本当に人としての感動を小学生がまた一つおしえてくれました。とてもうれしかった。その後、海勢頭豊さんの「月桃」を歌いました。「月桃」は戦争の悲しさ、戦争を二度とさせてはならないと6月23日(沖縄の終戦と言われてる日)の事を歌った歌です。そこでもすごく感動しました。その後、玉城先生も語りました。「自分で出来る事、それを出来る人になって欲しい。またそれを発信する人になってもらいたい」と子ども達に熱く話していました。こんな先生、面白くて良いよなーと思いました。この企画をしてくれた小学校の先生に感謝。幸せと真心を運んできてくれた小学生にも感謝。またいつでも遊びに来て欲しい。

・違法調査船監視

今日は私も監視します!と沙織ちゃん

 午前中、今日はとても晴れて、波も荒くないので作業員が7:30から漁港に来て準備をしていました。何の作業を今やっているのか聞くと、「音波をこれで出して計測している」と見せてくれました。
ジュゴンに影響は無いというふうに言っているが本当にそうなのか、ジュゴンの生態がわかっていない中でジュゴンがどれほどの音を聞き分けられるのかわかっていない中での調査。
準備に時間がかかっているとさおりちゃんとようこちゃんが来たので一緒に監視。

 「オーシャンエンジニアリング」(東京に本社を持つ、現在、海底地形調査を請け負っている業者)の作業員が二人、「大地エンジニアリング」(沖縄に事務所を持つ、この調査のサポートをしていると思われる業者)の作業員が一人、防衛施設局員が三人来ていて、また、辺野古の漁港はものものしい雰囲気に包まれていました。大地エンジニアリングの作業員はオーシャンエンジニアリングの作業員から「よろしく」と何か持たされた様でした。防衛施設局員は辺野古での一部始終をビデオカメラに収めていました。

 祐治さんは防衛施設局員に対して辺野古区民が今、この基地問題によりいかに苦しめられているか「辺野古の地元住民は眠れない夜を毎日不安で過ごしている。あなた達はいきなりづかづかと違法をものともせず、ここに乗り込んできて、私達、辺野古住民が説明を求めても暴力的に排除したのに。申し入れに行くと身の危険を感じるからと説明会もしっかり開かなかったじゃないか! こういう、理不尽さをあなた達は受け止めなければいけない。」と切々と訴えていました。防衛施設局員は少し困った顔をして「上司に伝えます」と一言だけ言いました。あなた達は人か!人ならしっかりとこの辺野古の人々の思いと向き合って「良い世の中を作っている」のか考えてください。

 結局9:20に出航しました。
辺野古漁港は本当にくらげが大発生している、海人のおっちゃんに聞くと、「海が汚れていると、それを食べにくらげが来ているのさ」とおっちゃん。そーかー。でもそれって辺野古の海は相当汚れているという事なのかな、嫌だなぁ。汚れを食べてくれるくらげ君達ありがとう!
調査船はその後、午後5:40頃、引き上げていきました。
 台風も去り、気象調査、海底地形調査をボーリング調査に向けて本格的に開始しました。違法性の上であらゆる事が強行されようとしている、許せないと思う人は一緒に行動しよう!

沖縄の新聞より

<2003年6月5日 夕刊 4面>

有事法案反対458人が署名/県内マスコミ

 参院で審議が進む有事関連法案について、県内マスコミ関係者らでつくる「沖縄の報道・メディアにかかわる有志一同」が四日、反対の声明を発表した。四百五十八人分の署名を添えて、参院有事法制特別委員会の委員四十五人、七政党・会派と、小泉純一郎首相に電子メールで送付する。

 声明は有事関連法案を「平和憲法を空洞化し、日本を戦争のできる国にするもの」と批判。個人情報保護法が成立したことと合わせ、「沖縄戦の惨禍を知り、今も基地の重圧の下にいる沖縄で報道にかかわる私たちは、国家による統制、人権侵害と戦争につながるこれらの法案に断固反対する」と強調した。

6月5日(木)

沙織ちゃんは明日帰るので、5日、朝8時前、違法測量船の様子を見に行くことにした
晋くんに話をきく沙織ちゃん
今日の早朝監視は晋くんと沙織ちゃん
測量船を見送る職員!?業者!?ビデオを回していた様子。
昨日の夕食は、ナーべラーチャンプルー、大家さんからもらった菜っ葉の味噌汁、琢磨さんからもらったかぼちゃの煮物、琢磨さんからモーイときゅうりで和え物、トッピングは嘉陽のおじぃからもらったトマト。 ジュゴンの家オープン当初から植えてあるあじさいが今年初めて咲きました。
沙織ちゃんの沖縄日記

 ジュゴンの家で店内整理をしながらかわいい子供服をいっぱい見つけた。それをたたんだり、並べたりするのは楽しかった。将来洋服屋さんになるのもいいなぁと思った。
 
 琢磨さんにジュゴンの見える丘に連れて行ってもらった。丘に行くまでの道は細くて、がけのような所もある。琢磨さんの軽トラで行った。ジェットコースターのようだ。 
 海はすごいきれいだった。ちょうちょとか飛んでいて、すっごいのどかな所だ。私もちょうちょと一緒にふわっと飛べたらいいなぁと思った。


 波の音をよく聞くとすごく力強い。


 琢磨さんはこうやってたくさんの人達をここに連れてきたんだろうなぁ。これからもまた、いろんな人にこの海を見せてあげて欲しい。

 帰りに二見パーラーへ。二見パーラーはとてもシュールな場所だった。きれいな魚が泳いでいたり、ピンクのカエル(植木鉢)や黄色のカエル(手洗い場)がいたり、気持ち良い風が吹いていたりした。そこでタコライスを食べた。ラテン系の味でとてもおいしかった。
 パーラーのおばさんにイラクに行ってきたというと、「えらいねぇ」と言って、すごいほめてくれた。
晋くんの「命を守る会」日誌
6月4日(水) 
 ・調査船は出ず、7:30ごろ、作業員が観察に来て、7:40ごろには帰っていきました。

 守る会には薫さんが手伝いに来てくれています。今日も、お客さんが来るとお茶を出してくれたり、おばぁ達のゆんたくの相手をしてくれて、とても雰囲気がいいです。
 最近、修学旅行などで平和学習にやってくる学生さんたちに話をする機会が増えました。今日も東京の中学校の先生が下見にきました。そして、訪問の予約。
 明日は県内の小学生がやってきます。小学生に伝わるように話をしたいと思います。寝る前に、準備をしーよぉっと!。
 平良夏芽さんの  イラク派遣団報告 
HP「イラクからの報告」より転載
詳しくはこちら→ http://www.ne.jp/asahi/cyura/kiyoko/iraq030527.html
イラク派遣団報告No.13
6/4(水)23:00(日本時間)電話連絡

6月4日(水)午前8時。ワリードさんたちがホテルに来てくださり、打合せ。
午前9時。残りの物資(ミルク15箱と小児用PL、包帯等)を持って、ニューバグダッドの南、アミン地区のモスクの診療所を訪問した。
夕方の数時間、モスクの建物が診療所として使用され、毎日100人余りの患者が訪れている。
モスクの診療所なので、イスラム教からの支援を受けているが、十分ではない。
私たちの贈り物を、喜んで受け取って下さった。

これで、私たちが沖縄から運んだものと、ヨルダンで購入した物資の全てを配った。
正直言って、焼け石に水であろう。しかし、そのような状況であることを見ることができたし、物資を運ぶルートも開拓した。非常に小さな働きだったかもしれないが、大切な行動をしたことは、間違いない事実だろう。

全てのプログラムを終了して、明日ヨルダンに帰る車の手配をしようとしていると、毎日運転してくれていたアリが、友人のドライバーに頼んでみると言ってくれた。
アリの友人宅を数軒訪ねたが、あいにくの留守。
心配する私たちを、アリは何と自宅に案内して下さった。
攻撃の前は、外国人がイラクの人の家を訪ねることは普通は無理であった。政府のお墨付きの家に、情報省のガイドで行くしかなかった。
今、イラクの人々の家庭に招かれるとは本当に素晴らしいことだ。

お茶だけをいただくつもりでお邪魔しただけだったが、何と昼食までごちそうになってしまった。
昼食の準備をしている1時間ほどの間、うとうとしていた島田さんのために、居間に布団を敷いていただき、島田さんは爆睡。

ものすごく豪華な昼食で、2種類のパスタと、クッバという肉まんのようなものを、おかゆスープに入れたようなもの、それにシシカバブーである。
私たちが食べる間、女性たちは給仕以外は出てこない。
比較的解放的な家で、おしゃべりをしている間は、男女関係なく居間で語り合い、女性たちもかなり積極的におしゃべりを楽しんでいたが、食事のときは伝統的なスタイルが残っている。
私たちが十分に食べた後、女性と子どもたちの番である。食事をしながら、
「あなたは何人の人と結婚しているのか?」とか「子どもは何人か?」と質問を受けた。
一夫一婦制を説明すると、そう言えばそうだったと笑われた。
こっちでは太っている方がもてるらしい・・・。

色々なアラビア語を習った。その中でスペシャルにうれしい大切な言葉。
サビーク、友達である。アンテ アナ サビーク。あなたと私は友達。
私たちは友達になった。

ホテルに帰って来て語り合っているとき、ワリードさんのお兄さんヤッハヤーと私たちは、互いに名前を付け合った。
私はジャバラ。ジャンボという意味である。
ヤッハヤーさんは、金城さんという名前を付けた。もちろん、沖縄の名前。ゴールド キャッスルと説明すると、彼は非常に喜んだ。
白井さんはムスターファ。
1人で散歩に行っていた島田さんの分も名前を付けてもらった。島田さんはサヴァル。良心と言う名前が付いた。
本当に光栄ある名前である。

今夜は、ワリードさんと金城さんことヤッハヤーさんと私たち3人の、5名で夕食。
明日朝6時にバグダッドを発ち、ヨルダンに向かう。あっと言う間のバグダッドだった。
帰りながら、あるいは帰って報告しながら反芻し、評価をしようと思う。
今はとにかくいっぱいいっぱいである。

戦争法をつぶそう!!!有事法案に反対する行動 平和市民連絡会

6/5(木)5:30から 那覇・三越前でビラ配りと宣伝行動

 /6(金) 平和運動センターの集会・デモに参加

 /8(日)4:00から 県庁前広場にて集会・デモ


6月4日(水)

台風もそれ、快晴!朝9時、琢磨さんにジュゴンの見える丘に連れて行ってもらいました。 トラックの荷台にのぼって記念写真を撮る琢磨さん 瀬嵩の浜の入り口に琢磨さん達が立てた看板。観光名所になりつつあるようです。
ジュゴンの里で琢磨さん、朝子さんとジュゴン傘をかぶって記念写真 モーイ(ウリ)の花 かぼちゃ
琢磨さんと琢磨さんのお母さんが野菜をもっていきなさい、とかぼちゃとモーイを収穫してくれた モーイをかじる!?沙織ちゃん。
あー、お腹がすいた!二見パーラーで昼食。沙織ちゃんは初めてのタコライス。 二見パーラーは廃浮きやブイにアイディアと時間と心を吹き込んで生き返ったポストや植木鉢、水槽などいっぱい!楽しんで見る沙織ちゃん
ジュゴンの家の店内が沙織ちゃんのおかげできれいになりました。

店内整理をしながら沙織ちゃんが発見した洋服をきれいに並べる法則
→「立体感」
夕食はハヤシライス。沙織ちゃん、ヨー子ちゃんと一緒に作っています(2人で味見をたくさんしました)。
作っていると晋くんが嘉陽のおじぃからたくさんトマトをもらってきたので、トマトもハヤシライスに入れました。贅沢なハヤシライスです!
晋くんの「命を守る会」日誌
5月3日(火)
 ・調査船は台風のため出ませんでした。7:30ごろ、作業員が来て、観察だけして帰っていきました。

 午後は東京の高校生が平和学習にやってきました。男子が30人です。(男子校なのかなぁ)
僕が話をして、嘉陽のおじぃが話をしました。基地に対する僕の思いを話しました。顔をこちらに向け、真剣に聞いてくれました。
 嘉陽のおじぃが浜辺に移動中の高校生達に僕の話した事についての感想を聞きに行ってくれました。
 「同世代なのに、人としての勉強をしていると思う。うらやましかった」といってくれたそうです。感想を聞きに行ってくれたおじぃに感謝!僕も元気がでました。
 平良夏芽さんの  イラク派遣団報告 

イラク派遣団報告No.11
6/2(月)23:10(日本時間)電話連絡

6月2日(月)
サダムシティのアル・ハビビーヤ病院という、産婦人科病院へ出かけた。サダムシティとは、元大統領の名前が付いているのだが、スラムと化した町である。大統領がいなくなったことでサダムシティの名もなくなったが、国が機能していないので新しい町の名は決まっていない。

病院に着くと、病院の名もアル・スッダー病院と変えられていた。
マネージャーにお会いし、沖縄から来たことを告げた。すると彼は、「この病院は略奪にあっていないし、イスラム教シーア派の特別な支援を受けているので薬は足りているが、ミルクは足りていない。」と説明して下さった。
現在のイラクで略奪に遭っていない病院はほとんどない。スラムで一番荒れていると思われる地区の病院だけは略奪にあっていない。
米軍がフセイン像を倒すときに駆りだしたのは彼らである。米軍がバスを用意して、彼らを略奪に連れ出したという話もある。
略奪をする側だから自分は被害に遭わないのだという考え方もあるが、本当にそのような人々なら、薬は足りているなどと言わないはずだ。NGOからもらい続け、横流しをすればかなりもうかるはずである。
ミルク10箱だけを寄贈させていただいた。

次に向かったのは、刑務所の跡に住み着いている十数家族がいる場所だ。
いわゆる国内難民たちで、自分たちの家もなく仕事もなく、生活に困窮している人々が寄り集まって生きているという。
向かう途中、島田さんが急に「ストップ!」と言ったので、車は急停車した。
今回おとなしい島田さんが、自分から声を出したのは初めてぐらいである。
見ると、信管がついたままのイラク軍の砲弾の山である。
近くで子供たちが遊んでいる。
「ムシケラ キャビア ジュッテン」覚えたアラビア語で、ここはとても危険である、と告げて再び車を走らせた。
瓦礫が延々と続く中に、元刑務所の廃墟はあった。15、6家族、100名余りである。
挨拶をして安否を問い、ビスケットとミルクを配った。ギリギリの生活をしている彼らにとって、これをもらえるかどうかはまさに死活問題である。1月にカルバラで経験した状況がすぐに起きる。
しかし、今回は予想していたので、混乱すると配るのを止め、落ち着くとまた配るということを繰り返していた。
かなり苦労していると、近くの建物で生活している家族が協力してくれた。
元刑務所なので、窓に鉄格子が付いている。部屋の中に物資を運び込み、鉄格子越しに配ることにした。
今度はうまくいった。
力の強いものが他の者を押しのけて前に来ても、しっかりと顔を確認して手渡すことができる。
ビスケット5箱、ミルク5箱を配り、結核で寝ている女性に栄養剤を差し上げた。
もうくたくたである。体も疲れたが、心もさらに疲れた。

帰って休みたかったが、マニブー探しが残っている。市場に行き、1時間ほど色んな人に写真を見せたが見つからない。マニブー、どこにいるんだ。

2時ごろ、ホテルに戻って来て一休み。
3時から、各NGOとの情報交換のために出かける。

*付記
1月に訪れた幼稚園がまだ機能していないとだけ報告したが、理由がわかった。
第1に、子供たちの安全が確保できない。
第2に、保育士の女性たちの安全が確保できない。
第3に、ガソリンがないので、教師も子どもも通園できない。
ということだった。
これがイラクの一つの現状だ。
イラク派遣団報告No.12
6/3(火)20:50(日本時間)電話連絡

6月2日(月)夜に考えたこと。
今のイラクでフセインやブッシュに対する評価は様々だ。どんなに苦しくても最低限の生活が保障されていたということで、フセインを今でも支持している人がいる。圧政に苦しみ続けて、フセインがいなくなったことを心から喜んでいる人も多い。

では、今回の攻撃は正しかったのか?
断じてそうではない。
問題を整理する必要がある。

第1に、フセインにしてもヒットラーにしてもアメリカの軍や経済界の支援がなければあれほど強大にならなかっただろう。朝鮮民主主義人民共和国にしても、旧ソ連が作り上げたものに他ならない。アメリカと旧ソ連の2大大国の利益のために育て上げ、利用し、手に負えなくなったら空爆する。まずその構図こそが問われなければならない。

第2に、今回の攻撃の大義名分として掲げられた理由である。多くの日本人がいとも簡単に忘れ去ってしまっていることであるが、掲げられた理由はイラクの解放ではなく、大量破壊兵器の武装解除である。国連を説得し続けた時はそのことだけを強調し、国連の協力が得られないとなると、攻撃直前にイラクの解放をほのめかし始めた。大軍事作戦の理由がころころ変わるのを、世界は座視してはならなかったはずだ。つまり、理屈の通らないことがまかり通ってしまった。否、まかり通してしまったのである。

このごまかしと世論操作に乗せられて「イラクの解放」などと言っているのは、あまりにも思慮がなさすぎる。大本営発表に騙された時代から何も学べていないということになる。
「人間の盾」がきたので攻撃が長引いたなどとほざいている人がいるという話を聞いた。
「人間の盾」と称してイラクにいた全ての人を肯定するつもりはないが、真面目に自分の生命をかけてイラクの人々を守りたいと決断し、実行していた人々に対して、おそらく何もしなかったであろう人間の評論など、反論する価値もないものであろうが、そんなくだらない言葉に踊らされている人間がいることを思うと、あえて記そう。

攻撃が短ければ良かったのか?
当初、アメリカが豪語していたように、ミサイルを雨あられのように降らせて、短時間で終わらせれば良かったのか。
何人までの死を良しとするのか。
小泉首相は、日本の交通事故死や自死の数と比較して、少なくて良かったという趣旨の発言をした。自分の家族がたった一人でも殺された時、私が同じことを口にしたら、彼はどう思うだろうか。

民主主義のためには流血が必要だと言う人もいる。
学習不足のその人に教育する必要がある。
自分の思いを実現するために武力を用いるのは、民主主義ではなくファシズムである。対話をあきらめて、武力を用いた時点で民主主義は敗北し、消滅するのである。まして血を流していない人間がそのことを口にする資格はない。
殺された人間、その家族が本当に、しかも心の底からそんなことを言うと思っているのだとしたら、想像力のかけらもなく、思慮不足だと言わざるを得ない。

人道ゆえの攻撃だったというなら、国連決議を500回近くも破り続けて、パレスチナの人々を殺し続けているイスラエルと、そのイスラエルを支援し続けているアメリカをどう説明するのか。
欺瞞的説明で人の生命を簡単に語ることは許されない。許してはならない。

アメリカの国防上の理由で育てられた国、アフガンとイラクの今は、日本の未来になり得ないと、誰が言えるのか?イラクの人々が、今回の攻撃と米軍の駐留を歓迎したとしても、私たち、少なくともその意味を知っているオキナワの私たちは、それを良しとしてはならない。
米軍基地にNoと言えないうちなんちゅが多くても、基地の完全撤去を訴え続けなければならないのと同様に、である。

(私たちは)クルド人の経営するホテルに宿泊し、クルド人と8年間も戦い続け片手の指1本を失った青年の車をチャーターし続け、米軍を歓迎している人もいるイラクのこの地で物資を配り続ける。
誰が何と言おうと、これは戦後復興や支援ではなく、沖縄の仲間たちと、その仲間に思いを重ねる大和の仲間たちの、戦後保障(謝罪)と出会いの旅なのである。


6月3日(水)午前8時。
バグダッドの北西150kmほどの町。ラマディーの産婦人・小児病院に向かう。
ラマディーは昨日も戦闘があり、2人死亡、20名以上負傷した町である。
途中、ドライバーが指差す方向を見て仰天した。ゴミ捨て場にミサイルが捨ててあるのだ。
第2次大戦後半、物資がなくなった日本軍が、ダミーの兵器を作っておいたのと同じ様なものなのか?実戦配備されていて、燃料と火薬だけを抜き取られたかは定かではないが、突然のミサイルの出現にビックリした。

さらに2時間ほど走り、車はラマディの町に着いた。ドライバーが崩れた建物の前で車を停めた。フェダイン(フセインの特殊部隊)の事務所があったという4階建てのビルは、だたの瓦礫の山になっていた。

写真を撮っていると、付近の子供たちが集まってきて、「こっちにクラスターがあるぞ。」というので、ついて行った。フェダインの事務所の隣は、身体障害児の施設で(現在は略奪で何もなくなり機能していないが)、その校庭にそれはあった。釣鐘状の不発弾と、黒くて細長いものが何発も散らばっているのである。地元住民は、米軍に撤去を要請したらしいが、まだそのままだと不満を訴えた。
殺傷能力の能力が確実に残っている不発弾が、校庭に散らばっている。その前に、機能していたはずの養護学校の校庭にクラスターがまかれた。その現実を私たちは腹のそこから恐ろしさを感じながら見つめていた。

私たちはその後病院に着き、自己紹介をして、ミルク10箱と包帯や消毒液などを差し上げた。この病院も薬がほとんどなくて困っていた。
「お金を寄付するのと、薬を寄付するのと、どちらが良いのか。」と尋ねると、「お金があってもこの町には薬がないのでしょうがない。薬が欲しい。」と言われた。

どこの病院でもまず欲しいと言われるのは、手袋である。ドクターたちは素手で仕事をしている。さらに、注射器、メスの替え刃、ガーゼ、点滴用の管、その他何でも、ドクターたちはとにかく全てのものが不足していると訴えてくる。


この報告を読んでいるNGOの方は行動を開始して下さい。
バグダッド市内には多くのNGOが入っていますが、少し郊外に出ると何もない状態です。バグダッド市内の大きな病院を見て、物資が足りていると思わないで下さい。
戦闘が続いているので、外科関係のものも必要です。とにかく何もかも不足しています。
送金は意味がありません。物資を直接届けて下さい。

こんなことを書いてしまいましたが、イラクはまだ戦場です。生命の安全を保証することはできません。砂嵐の中、陸路バグダッドに入るのも大変なことです。それでも覚悟して来て下さるNGOの方は、思いっきり物資を届けて下さい。お願いします。

私たちは約300万円の募金を持ってヨルダンに入りましたが、多くのNGOが薬を持って国境を越えるのを失敗しており、募金の全てを物資に換えて国境越えに失敗したら取り返しがつかないと思い、半分だけを薬等の物資に換えました。残りの資金をどうするのかは思案中です。
持ち込めた物資はイラクの現状からすると、あまりにも少ないものですが、物資を運ぶルートを開拓できたことは、今回の行動にとって、非常に意味のあることだと思います。
今後多くのNGOがこのルートを使って、物資を届けて下さるでしょう。

明日は、モスクが運営している診療所を訪問する予定です。


沖縄の新聞より
<2003年6月4日 朝刊 21面>

しぶいDEプリン、10分で完売

 北部農林高校食品科学科の生徒が授業の一環で開発したトウガンを加工した「しぶいDEプリン」の販売が五月三十一日、名護市の「道の駅」許田やんばる物産センターで始まった。同センターでは、毎週土曜日に五十個程度、販売していくという。

 同科では、トウガンの産地の伊江島で、年間約百トンが輸送コストなどで出荷されないことに着目。有効な活用法を模索。プリンに加工し、先月、同センターで試験販売したところ、好評で、本格的に製品化した。同センターの食品加工施設で、学校側から技術提供を受けた社員が作った。

 この日、用意した三十四個は十分程度で完売した。試食した那覇市の女性(54)は「おいしい。これからも沖縄の食材を使って、独特の味を開発してほしい」と期待した。

 販売に立ち会った開発メンバーの仲里龍真君(三年)は「やってきたことの成果が出てうれしい」と話し、浦崎沙織さん(二年)は「将来は食品関係の仕事に就きたいが、大きな自信となった」と喜んだ。


6月3日(火)

沙織ちゃんジュゴンの家一日目の食事は、ゴーヤチャンプルー、与那覇さんが辺野古でとったもずく、はつこさんからもらったトマトのスープ、など、自然の恵みいっぱいの夕食でした!
(写真がなくてすみません)
横須賀から来た沙織ちゃん、名護に到着!6日までジュゴンの家で研修です! 沙織ちゃんからお土産「ハトサブレ」を
いただきました。
翌朝、一番のお客さんはケンさん。
「イラクへいったんですよね。テレビで見ました、感動しました!」とケンさん。
その後、ヨーコちゃんと沙織ちゃんで羽地までドライブがてら引き取りに行き、
衣類の仕分けをするうららちゃんと沙織ちゃん。
ジャンの海アシビ(5/31-6/1 沖縄)  〜ジュゴンのように ジュゴンとともに〜
6月1日、うららちゃんと篠原さんが参加しました。
辺野古の自然について説明。この後3つのグループに分かれて行動 沖の藻場へ行くグループ
カヌーのグループ カヌー初挑戦の篠原さんと浦島さん。おおはしゃぎ!!
琢磨さんによるカヌーのコーチ いざ、出発!! リーフまで行くグループ
今日もいい天気、全国から寄せられた平和のハンカチが米軍基地を瀬に風にゆれる。
カヌーが終わったと、うららちゃんと篠原さんは「命を守る会」へおじゃま。祐治さんや晋くんから辺野古の話を聞きました。
うららちゃん日記

 きょうはジャンの海アシビ2日目。朝8:30から辺野古の浜のクリーンアップ作戦(ごみ拾い)があり、私と篠原さんは瀬だけの朝市で買い物をしてから辺野古へ。

 浜に着くと、キャンペーンセンターの人たちが集めた、辺野古の浜に落ちていたごみが分別されてたくさん置いてありました。すごい量だ。浜はきれいになってました。

 今日は環境アセスシンポジウムでおなじみの吉田先生(日本自然保護協会理事)による海草調査と、琢磨さんのカヌー、リーフの調査をする人、に分かれます。篠原さんはカヌー隊。ペアを組んで、琢磨さんにカヌーの漕ぎ方、倒れそうになった時の海への落ち方など習ったあと、海へと出発。だんだん浜から離れていきます。海草調査隊は、浜から600mほど離れたところで調査開始。ずいぶん離れているように見えるのに、みんな立っています。深さは膝下程度、というところ。不思議だ!!面白い。2時間くらいでみんな戻ってきました。篠原さんもとっても楽しそうでした。「命を守る会」前で今日の調査のまとめと解散のあいさつ。今日の海草調査でも、7種類の海草が見つかったようです。リーフの調査では、以前潜った時に見られた豊かなリーフはなくなっている、ということでした。見られたサンゴは、ちいさいサンゴが二種類(すみません、名前が聞き取れませんでした)だそうです。辺野古の海も壊されてきているのだ・・・。原因は演習なのか、水質なのか、オニヒトデなどの生き物によるものなのか、わからないけど人間がやったことが原因なんじゃないかなぁ・・・。

 解散したあと、篠原さんと、守る会にお邪魔しました。篠原さんが「命を守る会」に来るのは初めて。祐二さんに自己紹介したあと、浦島さんも一緒にゆんたくです。晋君が、初めて来た篠原さんに、辺野古の基地計画、現状を話します。篠原さんも私も、あいづちをうちながら聞きました。晋君は毎日こうやって話してるんだなぁと思いました。「海の家」をやっていた頃とはもうぜんぜん違う。しばらく話してから、浦島さんと私達は帰りました。篠原さんは明日から伊江島へ。2泊か3泊して帰ってくるからようこさんによろしく、と、今日の海アシビの感想を預かりました。

篠原さんの感想・・・カヌーに乗って辺野古の海を進みました。ここに、夜になったらジュゴンが海草を食べに来るのかなぁ、と思うと、ジュゴンがこの海に生きてるんだなぁ、と思えて、実感が持てました。楽しかった!!

写真の説明・・・与那覇さんがとったもずくを篠原さんにくれました。篠原さんからじゅごんの家にもおすそわけをいただきました。(写真で篠原さんが手にもっているのが新鮮なもずく)

 平良夏芽さんの  イラク派遣団報告  
HP「イラクからの報告」より転載
詳しくはこちら→ http://www.ne.jp/asahi/cyura/kiyoko/iraq030527.html
イラク派遣団報告No.8
6/1(日)21:45(日本時間) 電話連絡

((*)5月31日)午後4時ごろ、マニブーのいる市場に着いた。多くの建物が黒焦げになっている。爆撃で破壊されたのか、混乱の中で多発したという放火によるものなのかは区別はつかないが、焼けた建物は多い。さらに多いのは、これは爆風によるものと説明を受けたが、窓ガラスが割れている。かなり多くの建物で窓の破損が見られる。

残念なことに、マニブーは見つからなかった。
3月20日以降、市場が午前中しか開いていないということで、閉まっていたのだ。
何人かに写真を見せると、良く知っているが、今どこにいるかわからない、ということだった。また出直すことにする。

同行の高遠さんが、ムスタンシーリア大学の友人を探したいというので、一緒に探すことにした。彼女はその友人の住所を持っている。カズミーヤである。
タクシーを拾おうとしたがみんな高い。2ドルだという。外国人が言い値で乗ると、ここの物価が上がってしまう。安いタクシーを捜して、5、6台のタクシーをやり過ごしていると、2階建のバスが来た。周りの人々が、このバスはカズミーヤに行くというので、ダメもとで乗り込んだ。1人50イラクディナールである。
バスの中では何名ものお客さんたちとやり取りがあった。
フセインを嫌っている人、好きな人。
アメリカを歓迎している人、嫌っている人。
意見は様々だったが、高遠さんが、
「フセイン ビッグ アリババ」
「ブッシュ ボス アリババ」
と言うと、車内に笑い声が広がった。

町の至る所に米兵がいる。戦車がアスファルトを剥ぎ取りながら走行している。
バスがカズミーヤに着いて、乗客は全て降りた。
行く予定のところにまだ着いていなかったが、バスターミナルになっていたし、みんなが降りたので、私たちも仕方なく降りようとすると、運転手がそのまま乗っていろと言う。
「?」
全員が降りて私たちだけになったバスは走り出し、カズミーヤの細い路地を進んだ。路線バス、しかも2階建バスが走るような道ではない。那覇で言うと、国際通りから脇の道にバスが入っていくようなものだ。
しばらく走るとバスは止まり、運転手はバスを降りてついて来いというので、首をかしげながらもついて行った。
運転手は住所を記した紙を街の長老らしき人々に見せ、何やら聞いている。何と、高遠さんの友人の家を探してくれているのだ。
長老たちが調べている間、チャイまでごちそうになってしまった。
わかったことは、この住所は書き間違えて数km離れた町らしいというのだ。友人本人が書いた住所だと言ったが、私が分かっているから心配するなと言ってバスに乗り込み、再び走り始めた。もう何のことやらわからない。
全然違う町で降ろされたら、タクシーで戻ればいいやと腹をくくり、10数分間走り続けるバスに乗っていた。
郊外に出て、次の集落が見えてきた頃、運転手は「あなた達の友人はこの町だ。」と言った。
そこで降ろされるかと思ったら、バスはそのまま町の中に入り、路地を1本1本入って家を探し始めた。

運転手、彼の名前は「サーズ」。そして、車掌の「アハマック」。
サーズは私に、家の住所を読み上げろと言う。門の表札にかかっている住所である。
幸いアラビア語の数字だけは読める。
ワハット、イッナーン、フェルーファ、アルバーン、と読み上げ、やっと近づいてきたので、バスを停めて歩いて探すことになった。
その集落は、突然大きな2階建のバスが入ってきたし、そこから外国人が降りてきたので大騒ぎである。

友人の家を見つけ、スケジュールを相談し、再会を約束し、バスに戻ってきた。
サーズは「OK、今日はエンドレスだ。私は良いタクシーだろ?」と言って笑った。
「う〜ん」悩みつつも、ホテルに戻ることを告げると
「OK」と一声でそれを引き受けてくれた。
要するに数時間もの間、バスを1回の乗車料金50イラクディナールで借り切り、ガイドまでしてくれたのだ。
おまけに、戦争の状況を収めたというビデオCDを取り出してプレゼントしてくれた。
何とやさしい人に出会ったことか。
私たちはさらにイラクが好きになるのを感じた。

ホテルに着いて沖縄に電話。前回の報告も録音を失敗したというので報告し直しておいた。
ビルの陰に立つと、電波の関係で電話ができないので、交差点付近に立ってノートを読み上げる。外国人が交差点の真ん中に立って、長々と電話をするのは目立つ。注目の的である。
やっと報告を終えて夕食、今日もシシカバブーである。


6月1日(日)午前9:00前にロビーに降りて報告を書いていると、何名かの人々が入ってきた。
なんとワリードさんである。
白井さんが朝6時に起きて彼を探しに行ってくれていたのだ。なんとうれしい再会だろう。互いにかたく抱きしめ合い、再会を喜んだ。
ワリードさんは、バグダッドの爆撃が始まってから、沖縄の私たちが悲しんでいるだろうことを毎日毎日心配していたという。爆撃を受けている彼が、爆撃をする側にいる私たちのことを心配していてくださったのだ。何ということだ。
外を見ると、見慣れた黄色い幼稚園バスが停まっている。彼だ。運転手だ。
私は飛び出して行って挨拶をした。
あいにくワリードさんは仕事が忙しいということだったが、仕事があるというのは良いことだ。ワリードさんはお兄さんを連れてきて下さった。お兄さんがガイドして下さるそうだ。もう安心である。

今日は、バグダッド郊外にある、結核の療養所に行く。
爆撃よって落とされ、米軍の工兵隊が仮の橋を作っているところを通り、45分でその療養所に着いた・・・・が、そこは廃墟と化していた。空爆があったというのである。
この療養所の機能は隣の病院に移されたというので行ってみた。
エビン・ザハル病院である。患者らしき人々と、ドクターらしき人々はいる。しかし、何もない。本当に何もない。病院の体(てい)をなしていない。ここは略奪にあったというのだ。
薬、窓、ドアー、洗面所、ボイラー、ベッド、
ありとあらゆる物が略奪にあって何もない。いくつかのNGOの助けをかりて、やっと窓が入り、洗面所が直されつつあるだけだ。
わずかなミルクを差し上げ帰って来るだけしかなかった。
ドクターの説明では、最初に略奪に入ったのは、外から来た人々だった。村の人々は、病院を大切なものだということは知っているということだった。
いずれにしても米軍は、略奪をあおったり、手伝ったりはするものの、これを止めるためには何もしない。要請しても何もしないとのことだった。
米軍が略奪を手伝うとは。
アリババたちが塀を乗り越えるのを米兵が手伝っているのを、何名ものドクターや患者が見ているのである。
バグダッド市内の大きな病院の見学はまだしていないが、郊外の病院は、物資が不足しているどころか何もない、と言った方が実態を正確に伝えていると思う。

帰りにイスラエルのミサイルでやられたという、イラクの核施設の村に寄った。村の人々は放射能を非常に気にしていたが、数値は0.05μSv〜0.02μSvの範囲内。ヨルダンの4倍ではあるが、ありえる数値で、まだ誤差の範囲だ。
「ラ ムシケラー ノープロブレム」と言うと、彼らは安心した。
彼らの依頼で村の各所を測定したが、大丈夫だった。問題はその後である。

破壊された戦車があったので測定してみると、ガイガーカウンターはガーガーとうなりをあげ、数値は上がり続ける。0.5、0.9、2、4、8、9 ヨルダンが0.006に対して、9.0を簡単に超える。1000倍以上である。
カウンターを動かして、戦車に1cmに満たない小さな穴を見つけた。これが劣化ウラン弾が打ち込まれた跡だ。小さな小さな穴から放射能が出続けている。
村の人々に、非常に危険であることを告げて、その場を離れた。
その後、何台かの戦車を測定したが、そこにも放射能の反応はあった。

昼食をとり、ホテルに戻った。2:00過ぎである。外は沖縄のカンカン照りの暑さぐらいだが、湿度がないので私は楽だ。荷物を下ろし、翌日の打合せをして解散。
私と島田さんは、アルサ・ディールホテルまで歩いていくことにした。前回宿泊したホテルである。歩いていくと言うと、行きだけは送っていくと、ワリードさんのお兄さんが車で送って下さった。

アルサ・ディールのボーイさんたちは、みな無事だった。
写真を差し上げ、再会を喜んだ。
ワリードさんもそうだったが、ボーイさんたちも、
「ギターの彼はどうした?」
「車イスの彼は?」
「踊っていたメガネの彼は?」
と、7名が揃っていないのを心配していた。
「皆元気だ。今度7名で来る。」と伝えると、「ゼーン(good)」と喜んでくれた。

それにしても米兵が多い。
2機編隊の攻撃ヘリや、偵察ヘリが四六時中低空飛行を続けている。道はジープや戦車がしばしば通る。若い兵士たちは我が物顔で闊歩している。
無性に腹が立つ。


6/1(日)22:10米兵が多い理由がわかったと電話連絡あり。
バグダッド市内で2ヶ所、イラク人と米軍との間に銃撃戦があった模様。
銃撃戦は、バグダッド市内ではときどきだが、バグダッドから郊外に出ると、毎日銃撃戦があり、死者が出続けている。明日訪れる予定のリストの中に、今日も銃撃戦があった地域が入っている。これからどうするか、相談をする。
イラク派遣団報告No.9
6/2(月)10:55AM(日本時間)電話連絡があったが、あまりの電波状態の悪さに途中中断
6/2(月)13:30(日本時間)再び電話連絡

知らず知らずに頭にも心にも刷り込まれる情報がある。
イラクに関して言うならば、「イラク戦争」「戦後」「略奪」「治安維持」等の言葉がセットになって、ある種のイメージが作られている。
「戦争」と言うのは、対立する2つ以上の国どうしが武力衝突することである。湾岸戦争時の猛攻撃と、それに続く経済制裁。さらに核査察という名の徹底した調査と、強力な武力の強制廃棄によって、丸裸にされたイラクに、最新の兵器を大量に打ち込んだ行為を「戦争」と表現するのは、イラクが、本当に戦争にとって恐ろしい国家であるかのようなイメージの創作と刷り込みである。
また、いまだに銃撃戦が続き、死者が出続けているのに、せいぜい不発弾の被害しか報道されないで「戦後」という言葉が使われているのは「最小限の攻撃で、最大限の効果を生み出し、イラクの人々を解放した」というイメージ作りのための、隠蔽と歪曲以外の何ものでもない。

米国の大手マスコミのガイドをしていたイラク人青年は、銃撃戦があり、多くの死傷者出て病院に担ぎ込まれていることを、スタッフに何度も何度も伝えたが、取材すらせず無視され続けたと怒りをあわらにした。

今日(6/1)もバグダッド市内2ヶ所で銃撃戦があったが、恐らく日本にもアメリカにも報道されないであろう。

最後に「略奪」とそれに対する「治安維持」だが、「略奪」に関する報道には大きな疑問を感じる。確かに略奪は起きているし、重大な問題である。が、しかし、最初にフセイン政権の財産の略奪を促すかのような言葉を米兵が口にしていたことや、多くの略奪の現場に米兵が居合わせていながら何もしなかったばかりでなく、中には手伝っている兵士までいたということは報道されているだろうか。

これらの話をイラクの人々から何度も聞いて腹を立てていたが、
「米英軍が治安維持のために20万人残留」という報道を見て、全て納得した。
治安維持と称して米英軍がイラクに駐留し続ける口実が必要だったのである。
恐らく全てが綿密に計画されたことなのだと思う。こうしてイラクは、確実に第2のオキナワと化していくのだ。その重大な意味を、身をもって知っているオキナワだけは、せめてこの動きにしっかりと反対の声をあげ続けたい。
イラク派遣団報告No.10
6/2(月)13:30(日本時間)電話連絡

6月1日夕方
島田さんは歩くのが好きだ。自由な時間に上空(と言ってもビルの屋根にかかりそうなほど低空だが)米軍のヘリが飛んでいると、ビデオカメラを片手に追いかける。どこまでも追いかける。

夕方汗だくになって帰ってきた、島田さんの体験談である。
あるホテルの前に、NISSANと書かれた新車が何台も停まっているので、何気なくその車とホテルを撮影していたら、中から数十名の男たちが駆け出してきて島田さんを取り囲み、
何をしていた?何者だ?何を撮影していた?撮影していたものを見せろ。その部分を消せ。
と迫ってきたらしい。
相手の言っていることは大体わかるが、こちらの意見を言うほど英語力はないので、言われるままで大して反論できず、その部分を消去して解放されてきたというのである。
米国の情報を垂れ流し続けているマスコミは、身の危険を感じているということだろうか?
白井さんのカメラからフィルムを抜き取られたのと合わせて2回目。しかも今日は兵士ではなく、外国のプレスたちだったらしい。
「島田さんらしくない。」と言うと、
「うん、俺らしくない。くそっ、米兵に腹ばいにさせられるし、外国のプレスにビデオを消去させられるし、屈辱だ。」とうなった。

今のイラクをどう説明したらいいのか、悩むところだ。
たまにしか銃声は聞こえない。イラク国内でも、場所によっては電話が復旧し始めている。
インターネットカフェがオープンしているところすらある。人々の生活は元に戻りつつある。
しかし、私たちが1月に訪れた幼稚園は再開されていなし、病院には何もない。多くの建物が焼けているし、爆撃の跡も生々しい。
米兵がどこにでも銃を構えている。道のこちら側で、子供たちが米兵と戯れているかと思えば、反対側からは戦車の砲とうが子供たちを狙っている。米兵達も銃をしっかりと構え、狙いを定めている。何かがあれば、すぐに攻撃できる態勢である。
夜11時から朝5時までは外出禁止で、破ると私たちのような目に遭うし、のんびりとビデオを構えて歩いているだけで、大騒ぎになり映像を消去させられる。
あちこちに放射能を放ち続ける戦車の残骸が放置され、未使用の銃弾や砲弾は全く珍しくないというほど、よく落ちているし、不発弾らしきものも、たまに見える。
午後11時ごろ、数分間隔で2発の銃声が、今もまた聞こえた。
そんな国に、バックパッカーと称する観光客が、日本からも入り始めている。そんな中でイラクの人々はたくましく生きている。
今のイラクを説明するのは、とても難しい。
沖縄の新聞より
<2003年6月2日 朝刊 21面>

「道の駅」に銃携帯憲兵/嘉手納町
日本側へ連絡なし/米軍「司令官指示で警戒

 一日午前十一時半ごろ、嘉手納町屋良の「道の駅かでな」の正面駐車場に、弾倉の付いたM16自動小銃を肩にかけた米軍嘉手納基地所属の憲兵一人が現れ、通称・安保の丘周辺を警らした。自動小銃を担いだ米兵の姿に、居合わせた観光客から「弾は入っているのか」「恐ろしい」など不安の声が上がった。県警によると、同午後一時ごろ、米軍側は問い合わせに対し、「嘉手納基地内で重要なことがあり、司令官の指示で基地内外を警戒している」と回答したという。日米地位協定では、米兵が銃を携行して基地外へ出る場合、事前に日本側へ連絡することになっているが、県警などへの事前連絡はなかった。

 周辺住民によると、憲兵はパトロールカーで駐車場に乗り付け、同午前十一時十五分ごろから約二十分間、安保の丘の様子などをビデオカメラで撮影した。

 道の駅は、特産品や工芸品を買い求める観光客や地域の住民らが訪れており、自動小銃を装備した憲兵の姿に驚きの声が上がったという。

 正面玄関前にいたJAおきなわ嘉手納支店女性部の南純子部長(64)は「忙しくて気付かなかったが、観光客から『この辺では憲兵がいつも見回っているのか』『無神経ではないか』『危険だ』などの指摘があった。いくら警備のためとはいえ、営業に支障が出ては困る」と困惑した様子。

 観光で来県した主婦、児玉明美さん(35)=神奈川県=も「公共施設に銃を持って入るというのはおかしい。沖縄は危険な場所だと観光客にアピールしているようなものだ」と話した。

 宮城篤実嘉手納町長は「大勢の観光客がいる観光施設で銃を携帯し、はいかいするという物騒な行為は好ましくない。今後慎んでもらいたい。二日にも詳しい話を聞いた上で、今後の対応を考えたい」と話した。

 憲兵はこの日、午前八時三十分ごろにも安保の丘を巡回した。嘉手納基地を継続的に監視している男性は「米同時テロ後も、自動小銃を携行していたことはなかった」と話していた。

 一方、外務省は「外務省沖縄事務所を経由して二日以降、目的を確認するなど調査をすることになると思う」としている。

 「町屋良東部地区地域振興施設(道の駅かでな)」は基地所在市町村の活性化を目指す島田懇事業で整備され、四月二十六日にオープン。ゴーヤーなど地域特産品の販売や、平和学習室、嘉手納基地を一望できる展望フロアなどがある。

協定違反の可能性

 地位協定に詳しい本間浩法政大教授の話 地位協定は公務上、米兵の民間地域での犯罪の可能性がある場合に限り銃器を持って憲兵隊がパトロールすることや、基地の出入りに必要な際の武器携帯が認められている。しかし目的や範囲が限定されており、常態的に武器携帯の特権が認められているわけではない。

 基地の外は銃刀法など完全に日本の国内法の下にある。地位協定上、公務で限られた範囲の武器を携帯することが可能といっても、日本政府の同意が条件。さらに政府の同意が県に伝えられ意思疎通される必要がある。

 日本政府が黙認という形の論理を新たに立てない限り、(事前の通知・同意なしでの武器携帯を)認めることは協定違反。また、黙認の論理を立てるのであっても、国民の権利や利益に重大なかかわりを生じる問題でもあり、合意議事録の公開や、国会の同意を得ることが必要だ。そうでなければ政府の一方的な解釈による地位協定外しになる。

6月2日(月)

篠原さん、うららちゃん、ヨーコちゃんで瀬嵩の朝市へレッツゴー! 玉子、トマト、きゅうり各2袋づつ
全部で900円。
比嘉さんとヨーコちゃん
ジュゴンの家のトイレも夏にあわせて模様替え。最近ずっと天気が悪かったのですが、久しぶりに晴れたので、蛍光灯をふいたり、テーブルクロスやトイレを掃除して、店内が明るくなりました。
ジュゴンの家の大家さんです。
赤羽さーん!元気ですかー!
大家さんからの差し入れその@

無農薬でつくった菜っ葉
とってもきれい!!
大家さんからの差し入れそのA
天ぷら名人がつくった天ぷら
さっそくいただきます!
さすが名人がつくっただけあっておいしい!沖縄の天ぷらは衣がふわふわ。
ジュゴンの家で作文の宿題をしていたけいり君。やすひろさんにHELPの電話。
先日、金武の作業所「らふてぃ」の
引越しを終えて、ほっした千鶴子さんが遊びに来ました。
「ジュゴンの家みたいなのがいい!」という「らふてぃ」のメンバーの要望に答え、調査にきた千鶴子さんと色々話をするヨーコちゃん。


6月1日(日)

ジャンの海アシビ(5/31-6/1 沖縄)  〜ジュゴンのように ジュゴンとともに〜

5/31(土) 一日目にうららちゃんと晋くんが参加しました。
朝からみんなで準備します
基地の幅を表す目印にするイカダにシートをかぶせ、船で沖までひっぱっていく。
船で平島へ行く人達は港でお弁当を食べながら説明を受ける 船で平島へGO!
こちらはカヌー組
目崎教授による珊瑚の話 ジュゴン保護キャンペーンセンターの
蜷川さん
キャンペーンセンターの女性と西岡さん
真っ赤できまってるぅ!カマドィ小の
又吉さん。
西原から来た宮本さんご夫妻 小さな貝で貝笛の練習をする浦島さん
やすひろさんと千鶴子さん 善次さん、嘉陽のおじぃ、やすひろさん いつもは瀬嵩の海で遊んでいる武龍くんもきました。
やすひろさん一家 モモちゃんでーす 潮がひいて漁港のそばの岩にのぼるはつこさん。
辺野古の浜で自分で集めた貝を展示するおばぁ。辺野古の海は貝が豊富です。
フェンスの向こうに米軍車両 フェンスの手前は平和のハンカチ。ハンカチにはみんなのメッセージが書かれている。中国からも送られてきたそうです。もちろんジュゴンの家も書きました。
ライブのスタート 浦島さんとキャンペーンセンターの女性
が司会
おばぁたちも一緒にじゃんけんゲーム
ずらりと並んだおばぁたち
「命を守る会」の祐治さん ジュゴン保護キャンペーンセンター代表の宮城やすひろさん キャンペーンセンターの西岡さん。
翌日のビーチクリーン担当です。
「市民アセスなご」のかなめさん WWFジャパンの佐久間さん
「ワッター島うちなー」「ちばりよー」
を歌うまよなかしんやさん
海勢頭豊さん
海上のみんなを巻き込んでブラジルの踊り「♪ボンシボ」を踊る千鶴子さん。
焼き鳥、沖縄そばなどキャンペーンセンターの方達が準備sてくれました ライブを見る祐治さんと嘉陽のおじぃ
なごんちゅバンド「WE CAN」 WWFジャパン代表の花輪さん
最後は知花昌一さんの三線「花」でみんなカチャーシーを踊る
うららちゃん日記
 今日は辺野古で浜アシビ(遊び)があったので行ってきた。台風がそれたので、天気は快晴!!青い海と青い空がとってもきれいです。浜にはたくさんの人が集まっています。カヌーに乗る人、船の乗って平島まで行く人に分かれ、それぞれ準備して出かけていきます。
  その間残った人達は浜遊び。潮がひいて漁港近くの鳥居がある岩に登って裏側まで行ってみました。岩は長い間、波に削られて、穴があいてでこぼこしています。岩にくっついていた「モーモー」というピカピカした貝をはつこさんが見つけて「これを2,3ヶ月土の中に埋めておくと身だけが取れるよ。もって帰りなさい」と教えてくれました。
 
 カヌー&船で平島へ行った組が帰ってきて、午後6時ごろからライブの始まり。舞台の近くにはおばぁ達が並んで座っています。
 ジュゴン保護キャンペーンセンターの人達の司会で、じゃんけんゲーム(景品付き)があり、おばぁ達も参加して楽しそうでした。
 まよなかしんやさん、海勢頭豊さんが歌った後、3日前に結成されたばかり!!という名護んちゅ(名護の人)バンド「WE
 CAN」(「CAN」は「市民アセスなご」を英訳した頭文字)によるライブ。メンバーは宮城やすひろさん、吉川さん(大学の先生)、「市民アセスなご」のかなめさん、小学校の先生の悟さん。この瞬間、このバンドでしか聞けない演奏!!という感じです。とっても素敵です!!
 最後は知花昌一さんが「花」を歌い、みんなでカチャーシーを踊って終わりました。楽しかった!!晴れてよかったなぁ。
 
晋くんの「命を守る会」日誌
5月31日(土)
・測量船は台風の余波で波が高いため出ませんでした。「潮位測定器」の確認にも来ませんでした。今日、「ジャンの海アシビ」のイベントがあったからでしょうか。

 「命を守る会」は「ジャンの海ああし美」のイベントのため、たくさんの人が訪れました。そんな中、いつも遊びにきてくれる県内の小学校の先生が「北部に用事で来たから」と教え子の小学生を連れて来てくれました。戦争のことやジュゴンのことを学んでいるそうです。「あー、このニーニー(お兄ちゃん)、本に載ってた人だー!」とかけよってきました。「6月にまた来るのでよろしくおねがいします」と丁寧にお願いされました。こりゃ、しっかり、わかりやすいように話をしないとな、と思いました。
 イベントの方は、コンサートがとても良かったと思います。最後に知花昌一さんの三線でカチャーシー。
「晋も弾きなさい!おばぁたちは応援するのにー!」。次回はカチャーシーを弾けるようになって、おばぁたちに踊ってもらいたい。
 平良夏芽さんの  イラク派遣団報告  
HP「イラクからの報告」より転載
詳しくはこちら→ http://www.ne.jp/asahi/cyura/kiyoko/iraq030527.html
イラク派遣団報告No.7
6/1(日)0:05(日本時間) 電話連絡

5月31日午前9時((*)日本時間14:00)
全ての薬と少しのミルクを積み込む車を手配。1日と昼食付で40ドルの交渉成立。
ハルージャの病院に行く。ハルージャは、バグダッドから北西に約80kmの8万人の都市である。ここは、米軍が学校の校舎を徴用していた上に、近所の子供たちに面白半分でポルノ雑誌を配ったということで大きな抗議のデモになり、米兵が住民を数名撃ち殺したという場所です。

11:30頃病院に着きました。8万人都市で唯一の病院だそうです。
ハルージャ ゼネラル ホスピタル。173床の規模のベッドです。
埃まみれで箱のつぶれた薬のことと、私たちの思いを伝えると、「ここには国もNGOもほとんど来ない。イタリアのNGOが酸素ボンベを届けてくれたが、薬はどこからも入ってこない。その薬がもし道に落ちていたとしても、私たちは拾って使う。」と言って下さった。
どこまでが本当かはわからないが、物資が不足していることだけは素人が見てもわかる。薬を入れる冷蔵庫は空っぽであった。
各ベッドには私用した注射器が置いてある。1つの注射器を使いまわすことはしていないが、1人に何回も使っているのだという。
ドクターも手袋なしで、患者の血がつく処置を行っている。
ハエが多く、衛生状態も良くはない。

小児病棟を案内していただくと、早産が多いと説明された。爆撃の中でショックによる早産だろうとドクターは話された。
何名かにお会いして帰ろうとすると、ものすごい形相で私を引き留める男性がいた。こっちに来いと言っている。
外に出ていく仲間たちに一声、声をかけて、男性と病室に戻った。
ショックだった。
真っ白な顔色でほとんど動かなくなっている子たちが何人も、何人も寝ていた。
点滴も何もなく、あるのは酸素ボンベだけである。
男性はアラビア語で激しく語りかけてきたが、私に伝わらないのを見ると、
「ブッシュ」と言って床につばを吐いた。
私は、「ナーン、ナーン(イエス、イエス)」と同意したが、それはそのまま、
「コイズミ」と言ってつばを吐く姿であったし、
「オキナワ」と言ってつばを吐く姿に思えてならなかった。

ドライバーと共に昼食を取り、破壊された戦車がゴロゴロある道を通ってホテルに戻ってきた。
これから市場に、マニブーを探しに行く。


(*)付の注釈は筆記者が付けたものです。




イラク派遣団報告No.6
5/31(土)13:25(日本時間) 電話連絡

皆さんを心配させていたであろう事故と、その後の報告をします。
国境を越えた頃から砂嵐がひどくなってきました。ヨルダンでの砂嵐が遊びのように思えるほど激しいものです。時速100kmで走っていた車の視界が突然真っ白になり、何も見えなくなりました。高速道路を走行中にいきなり目隠しをされたのと同じくらいです。

と、いきなり数m先にぶつかって止まっている車が何台も現れるのです。かなり絶望的な状況でした。助手席にいた私はほとんどあきらめて、ダッシュボードに足をつっぱり、両手で天井を押さえました。衝突、横転を覚悟したのです。しかし、我々のドライバーのファースンさんの腕が良いのとラッキーも重なり、何とかそこをすり抜けることができました。
後で知ったのですが、そこでは12台がからむ大事故になっており、さらに私たちの後方5kmほどのところでは車5台が衝突、炎上しているとのことでした。

その場で車を止めることがあまりにも危険だと判断したファースンさんは2kmほど走って車を止め後続車を待ちました。しかし私たちに届いたのは「お前たちの仲間は後ろで事故しているぞ」という類の叫び声を残して走り去って行く数台の車でした。
中央分離帯があるのですぐにUターンをするわけにいきません。さらに数km走り、分離帯が切れているところでUターンをしました。
事故現場付近で車を脇に寄せて止め、ジャマーンさんの様子を見に行きたいのですが、ものすごい砂嵐で前が見えず、車を離れると戻ってこられるかという状況でした。
さらに目の前で(と言っても音しか聞こえないのですが)、次々と車が激しく衝突を続けています。車が大破して動けないということと、ジャマーンさんが足を怪我したらしいということは、ファースンさんが周囲の人から聞きだしたのですが、それ以上はわかりません。

とりあえずタクシー会社に電話しました。砂漠の真ん中では衛星電話しか通じません。持っていた電話が役に立ちました。しばらくそこで待っていたのですが、もっと現場に近づかないと状況が良くわからないということで、車を数km走らせUターンして、事故のあった側に車をつけました。ジャマーンさんはそこにいませんでした。

すでに米軍が駆けつけています。ジャマーンさんがそこを立ち去ったことだけはわかったので、次の病院にいるかもしれないということで、車をまた走らせました。
この間、車を走らせるといっても状況は全く変わっておらず、何度もぶつかりそうになりながらの走行でした。

しばらく走ったところのドライブインで、ジャマーンさんの怪我が大したことなく、自分でレッカーを呼びに行ったということがわかったので、私たちはまた現場に戻りました。
車の中で30分ほど待ったのですが、ジャマーンさんは来ません。
どうするべきか?
とりあえず、私たちと車の薬だけ500km先のバグダッドに行き、事故車とそこの薬はジャマーンさんに委ねるべきか?
しかしファースンさんに尋ねると、自分達がそこを離れると、アリババが来るというのです。英語をほとんど話せない彼は、身振りとボックス、アリババという単語で私たちにその意味を伝えてくれました。

いよいよ困り果てたところに1台のタクシーが止まりました。自分達もバグダッドに行くが、50ドルで荷物を積んでくれるというのです。とにかく仕方がありません。全員で荷物の積み替えです。現場に散乱した荷物を集めました。
しかし幸いなことに、高価な薬のほとんどが私たちの車に乗っていました。どうしようもなくなった薬はわずかです。とにかく普通のタクシーとGMCの天井にめいいっぱい載せました。多少の箱を現場に置いていかざるを得ないと思っていたのですが、全部の薬を積み込むことができました。

午後5時前、再出発です。1時間ほど走ったところで島田さんが「トイレ」と言ったので車を止めました。そこで放射能を測ったのですが、0.19μSv〜0.24μSv の間です。ヨルダンでは0.06〜0.09μSvだったので多少強いかもしれませんが、まだ誤差の範囲っだと思います。
さらに走っていくと、前から走ってきた対向車のトラックがパッシングをしてきます。ファースンさんは指差して「ジャマーン」と言いました。この嵐の中で、あの距離で、あの速度で、何で人の顔までわかるのか?さすがイラク人。砂漠の民です。

ジャマーンさんの服は何箇所も血がついていましたが、割と元気でした。私たちに本当に申し訳なさそうに挨拶しました。トラックを探してやっと戻ってきたのですが、もう積み替える時間はありません。車を断り、別れを告げて私たちはバグダッドに向かいました。

夜12時頃((*)日本時間5/31 AM5:00)、やっとバグダッドに着きましたが、タクシーの本来のお客さんをまず先に降ろしました。彼は、今夜はうちに泊まっていけと言って下さいましたが、丁重にお断りしてホテルに向かいました。
市内を走っていると、誰かが叫びながら走ってきます。見ると銃を持っています。緊張が走りました。11時以降は外出禁止令が出ているのです。米兵はものすごい緊張した面持ちで銃を私たちに向け叫び続けています。
私たちは車を止め、車の中で手を挙げました。下手な動きをしたらほぼ間違いなく撃ち殺されるでしょう。数日前に米兵が殺されて、米兵もピリピリしているはずです。
全員外に出され、道路に腹ばいにさせられ、そのまま尋問を受けました。パスポートを見せろと言うのですが、動こうとすると緊張が走ります。車の中のバックの中にあることを告げ、米兵と共にゆっくり車へ。全ての動きをゆっくりとしました。兵士の指は引き金にかかっているのです。しばらくの尋問と、事故の話、NGOであることを告げると、やっとホテルに向かうことを許されました。ここはまだ戦場なのです。街中を戦車がごう音をあげて走り回っています。

やっとホテルに着きました。幸い部屋はあいているそうです。
ヨルダンから同行した高遠さんのなじみのホテルです。1人8ドル、交渉成立です。荷物を降ろしました。くたくたですが、翌日の打合せをして、やっと各自の部屋です。

午前2時。ヨルダンを出てから24時間です。シャワーを浴び、洗濯をしました。
全てがまっ茶色です。この記録を書き終え3:15。もう寝ます。


<現地時間について>
前回の報告から現地時間がおかしいのではないかと問合せをしていたが、サマータイムのためでした。
報告の中の時間も訂正したので、転載されている方はご面倒ですが、新しく更新して下さい。
ヨルダン(アンマン)との時差6時間、イラク時間の時差5時間です。



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