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1月23日(木)


イラク派遣団・帰国!!
(1/21) うららちゃんの報告

 イラク派遣団も昨日沖縄に帰ってきました!! 領事館前断食座り込みと合流して、熱い報告が行われました。現地へ行って来た夏芽さん達の実感というのはとても重くて大きなものなのだと思います。熱い熱い報告と再会でした!!

昼間の座り込みの様子

 悦美さん、金城さん、桑江さんの3人は、9日間断食しているとは思えないほどきびきびと動き元気に見えました。福の木診療所の知念先生が来て断食している3人を診察「異常なし、健康です」という事でした。5日間断食していた島田はるさんは、大分血圧があがっていた(知念先生はボランティアで来ていました)。金城さんは、断食してかえって調子がいい、健康になった!!と言っていました。

 道を行く車に、座り込みの呼びかけのビラを配ると、「頑張ってくださいね!!」と言う人もいて、名乗らずに飲み物を差し入れてくれた人もいました。17日の金曜集会の日に来ていた小学生の男の子達も一緒に座り込みをしました。
 
 領事館前には、座り込みを応援する人達からの差し入れや電報が届きます。修さんが電報を読みます。宮城セツ子さんは、夜照らすキャンドルランプをつくりました。真喜志さんは、イラク派遣団を迎える横断幕をつくりました。
断食9日目 福の木診療所・知念先生の診察を
受ける平良悦美さん
「異常なし、健康です」
子供たちも座り込みに参加する
座り込みに対する応援メッセージの
電報を読む平良修牧師
子供たちと話す
座り込みをする中でも、米軍機が
横切っていく
夜になって、キャンドルを灯す
断食を続ける、桑江テル子さん イラク派遣団を迎える横断幕をつくる
真喜志さん

空港での出迎え

 9時18分に関空からの飛行機が那覇に到着。派遣団を拍手で迎えます。派遣団を代表して秋山さんから報告「イラク現地で歌を歌ってパフォーマンスをしました。一緒に歌い、踊った、イラクの民衆の手のぬくもりを忘れる事はできません。沖縄の基地を無くすことによってイラクの人達に返していきたい。」夏芽さんはテレビ局から取材を受け「それぞれがイラクへ行く前よりも重い物を抱えて帰って来たと思う」と話していました。

 厳しい、引き締まった表情で帰ってきたイラク派遣団。その表情がイラクでの様子を物語っている。

空港から、領事館前へ 座り込みの人達と合流

 キャンドルに照らされるなか、領事館前で座り込みをしていた人々、イラク派遣団を出迎えに集まった人々が拍手で「お帰り〜!!」と出迎える。(派遣団が着くまでの間、イラクから沖縄に毎日届いていた現地報告が読み上げられていた)

イラク派遣団と座り込みの人達、抱き合って再会!! 報告が行われる。

 秋山さん「沖縄の民衆がはじめてイラクの人達と触れ合ったことは、大きな成果だったと思う」

 夏芽さん「最後に、『私は沖縄に帰ります。必死で戦争を止める努力をします。必ずまた来ます。それまで生きていてください』と、情けなくもそう挨拶をしました。これから見ていて下さい、全身全霊をかけて、戦争をとめます。みなさん、ともに立ち上がりましょう!!」

 豊見山さん「そこには人間が生きている、ということを実感しました。朝日新聞の国際面に「経済制裁下なのにあふれる物資」というタイトルの記事がありました。子供達が死んでいく原因には、戦争という事ももちろんありますが、経済制裁も大きな原因です。母親が栄養失調になり、子供の泣き声も聞こえてきません。死んでいく子供達を見ているしかない。戦争による死もありますが、今のイラクは経済制裁による生殺しの状況です。この新聞記事を書いた人が目の前にいたら、僕は気持ちを抑えられなかったと思う」「ストリートチルドレンの子供達に会いました。僕の車椅子を押して街を案内してくれた。戦争になったら、この子供達がやられる。人懐っこい笑顔をした、こ の子供達と出会った事は大きな事です。」

 よしかわさん「総領事館前での座り込みの事はずっと憶えていました。戦争になったら、イラクへ行って、一緒に話して歌った子供達が殺されるという事を実感しました。戦争になると、この子供達が真っ先に被害を受けて犠牲になる。子供達に会えてよかったと思うと同時に、戦争をとめなければならないという思いを強くしました。

 しんやさん「子供達にビスケットを配った時、大人が子供達のものを奪ってゆく場面を見ました。戦争は人の心を変えてしまう」「座り込み行動は私達の背中を強く強く押してくれた。これからもっともっと戦争を止める闘いをやっていきたいと思う。」

 悦美さん「今日までにここに来た人は473人になりました。戦争を止めようとする人達の思いが強くなれば、戦争は止められる。」

 金城さん「普通の主婦の私が断食に立ち上がる事ができたんだから、みなさんが立ち上がればこの戦争は止められる!!」

 桑江さん「自分ひとりでもできる闘いは何だろうか、と考え、断食をする事に決めました。断食をしている間、人との触れ合いがありました。」「戦争が始まる前に行動を!! 今が闘う時です!!」 

 悦美さん「イラクからの通信を作ってくれた人、夜泊まりこんで私達を守ってくれた人、見えないところで支えてくれた人達がいて、断食と座り込みを貫く事ができました。ありがとう」

 報告が終わったあとも、なかなかみんな帰らずに、再会を喜び合っていました。

領事館前座り込み最終日、イラク派遣団を出迎えた感想 うらら

 座り込み最終日の21日、私もまた参加しました。悦美さんは穏やかに迎え入れてくれ、しばらく隣に座って話すことができました。悦美さんは、今、直感で動く事がとても大事だと思っている。と、話しました。もし、この断食や座り込みが笑われる事があったとしても、どうしてもこの戦争を止めたいんだ、という意志、決意をあらわすことが大事だと思う。そして今、動き行動する事が出来なくても、この座り込みを見て、見た人の中に動き出すための種が生まれればいいと思っている。行動する事も大事だけれど、それがすべてじゃない、大切なのは、確実に戦争反対の思いを強めていくことなのよ、と悦美さんは言います。

 イラク派遣団を空港まで出迎えに行く方の車に乗せてもらい、空港まで行く事が出来ました。

 出迎え式では、しんやさんも富見山さんも夏芽さんも、秋山さんが話す間、涙ぐんでいました。本当に、イラクで生きている人達と出会ってきたんだと思いました。そして、軍事基地がある沖縄に帰ってきた。現地で生きる人と触れ合ってきた、しんやさん達の気持ちは、いったいどんなものだろうと思う。

 領事館へ向かう車の中、夏芽さんからイラクでの様々な体験を聞く事ができました。

 イラクから毎日、FAXで現地報告を送っていたが、そこに書く事ができないこともたくさんあったそうです。イラクの街並みは、攻撃された家は破壊されていますが、道や建物はきれいだった。もともとイラクは資源が豊富な国で、教育も医療も無料、社会基盤は整っていた。アメリカによる経済制裁さえなければ、自分達の資源で暮らしていける国なのに、と夏芽さんは話します。自分達がFAXを送るために何十枚というお札を使うのに、イラクの人達はこのお札一枚で買えるパンが買えない。そのギャップが凄く、お金を使うのがとても嫌だった。イラクでは、夏芽さんが富見山さんの車椅子を押していたので、人々がどんなふうに見ているかよくわかった。みんな富見山さんに敬意を払い、とても優しかった。イラクの人々はとても信仰が厚く、人々に「戦争についてどう思うか」と聞いても、「目的地に時間までに着けるかな?」と聞いても、「インシャラー」という言葉が返ってくる。悪い意味ではなく、神に身を預け、本当に敬虔に心から神を信じている。・・・・夏芽さんは体験してきた事を熱く話し続けます。

 領事館に着き、イラク派遣団は座り込みの人達と合流し、報告が行われました。握手をし、抱き合い、これから闘っていく決意を確認し合っていました。夏芽さん達は、生きている人間に会ってきた。触れ合った人達が、戦争を止められなければ殺されてしまう、自分達が殺してしまう、という重く強い実感を持って、基地がある沖縄に帰ってきた。悦美さんが言っていた言葉、「物言わぬ民は人を殺す。」

 この戦争を止めるため、自分は今何をしてるだろう、と思いました。もっと真剣に、自分の中に積み重ねていかなければ、と思います。



http://www.ne.jp/asahi/cyura/kiyoko/ より転載

イラク派遣団現地報告


イラク派遣団報告No.1

1/14(火)PM13:30(日本時間) FAX受信
1/13(月)日本時間4:00PM イラク派遣団出発式


 那覇空港3Fロビーに100名余りの見送りとマスコミ各社が集まる中、出発式が行われた。平和市民連絡会の事務局の城間さんが司会をされ、まず、派遣団団長の島田さん、続いて連絡会共同代表のお一人、金城睦弁護士、島袋とも子さんの挨拶が続き、最後に高退協の宜保さんが力強く、イラクと沖縄、さらに世界を結ぶ反戦の戦いを戦い抜こうと挨拶があり、全員の大きな拍手をもって出発式を終えた。

 しばらくの時間、握手をし合ったり、背をたたいたりして、お互いの想いを確認し、又、写真を撮ったりと、個々人が別れを告げあったが、団長の声をきっかけに出発ロビーに移動。「ウィー シャル オーバー カム」が歌われる中、私たちは手荷物検査に入った。6名が何事も無く通過したが、団長の荷物がひっかかった。医療セットが入っているカバンである。結局、ハサミ一つを処分して通過した。 NH496便で関空へ。関空で通訳の方と合流してEK317でドバイ(アラブ首長国連邦)へ。所要時間12時間。日本時間の午前11時半(ドバイ時間6時半、時差5時間)ドバイ空港内で約8時間。

 ドバイ空港では、車イス専用のリフトトラックが機体まで迎えに来てくれた。しかし係員が8時間も張り付くと言う。事務所まで行って、かなり無理を言って、自分たちだけで動くことにした。しかし、関空から飛んだ飛行機が沖縄・石垣の上空を飛ぶのにはがっかり・・・。

 沖縄からベトナム上空へ。ベトナム戦争の時、B52が飛んだルートだ。

イラク派遣団報告No.2
1/15(水)AM0:30(日本時間) FAX受信
1/14ドバイ時間(DT)14:00(日本時間PM4:00)


 EK 309便でアンマンへ。ペルシャ湾上空を飛び、DT15:50頃、砂漠の上に入る。機は大きくイラクを避けて飛んでいる。1万メートルの上空から30分以上、下を見続けるが、平たい砂漠だけが広がっている。

 DT 5:30 アンマン着。時差が2時間あるので時計を2時間戻す。アンマン時間(AT)3:30(日本時間 PM10:30)、全員無事ヨルダンに入国。両替1ヨルダンディナールが約160円。個々人は40USドルを両替。預けた荷物も無事に受け取り、空港のロビーに出ると、ヨルダンの受け入れの方々が待っていて下さった。諸団体の名称も詳しく書きたいのだが、ツアー会社の様に利用されると困るので、口外しないでくれと頼まれているため詳細は省く。

 空港からヨルダン市内まで約55km。ほとんど平原と言ってよいほどのなだらかな丘陵地帯が延々と続いている。市街地の真ん中にホテルがあった。アンマン・パレス・ホテル、1泊20ディナール。チェックインして、全員でイラクへのおみやげの追加を買出しに行き、夕食は外食の予定だったが、ヨルダンの受け入れの○○さん宅に招かれる事になった。

 イラクでは、どんなに親しくなっても「スパイ」等の問題で、個人宅に行くことは非常に難しいというので、アラブの人の家に入る素晴らしいチャンスだ。外気温は12℃。ヨルダン時間(JT)17:30

イラク派遣団報告No.3
1/15(水)PM0:30(日本時間) FAX受信

 ホテルから買出しに出かけた。陽が沈むと同時に気温が急に下がる。1時間で7℃も下がった。市内のスーパーで、イラク滞在中に必要な飲み水を買い、子どもたちにプレゼントするビスケットを購入するためにプリスタン・ストリートへ行った。分かりやすく言い直すとパレスチナ・ストリートである。イスラエルから追い出されたパレスチナ難民たちの生活する街である。イラクの子たちに配るビスケットを、パレスチナ難民の店で買うことは、意味のある事だと思う。アンマンの人口500万人のうち350万人がパレスチナの人だと言う。この街アンマンも米国のイスラエル政策に振り回されている国だ。

 これでイラクへの荷物はそろった。アラビア語のチラシも出来上がった。あとはプレゼントをどう渡すかが問題だ。イラクは基本的に、寄付等を受け取らない国だと言う。だから、公の施設に公に配ることは難しい。そもそも、爆弾を止める事がまだ出来ていないというのに物を配るというのもおかしい。そんな様々な矛盾や問題を抱えたまま、イラク派遣団は夕食を済ませてホテルに戻った。ヨルダン時間PM9:45(日本時間AM4:45)

 夕食をとりながら、沖縄の米総領事館前の断食座り込みが話題になった。「そんな事をしてたら体を壊す」「そこまで真剣に考えてこなかった沖縄が問われているんだ」「そんな重荷を他人にも押し付ける様な形は・・・」内容は正確ではないが、そんなやり取りがあった。ハッと我に返ると、あと数時間でイラクに向けての最終的な出発をする者たちの会話でもなかったような気がする。いずれにしても、沖縄での闘いが非常に気になっているのは確かだ。明日は5時起床、5時半朝食、6時出発。

 イラクの北部と南部の上空は飛行禁止エリアに指定されており、米英軍の空爆が連日の様に行われている。我々の走る道は、ちょうど南部の飛行禁止エリアの境目を走る。約1,000km 15時間〜20時間の旅だ。

イラク派遣団報告No.4
1/16(木)PM5:00(日本時間) FAX受信 FAXの画質が悪く、一部解読不可能部分あり。

 朝5時(ヨルダン時間)、コーランが流れる○○○○○○○朝食。ナン○○のかわりにしたと言えば分かりやすいだろうか。○○○○○それに紅茶。

 6時に来るはずのバスが来ずハラハラしたが30分遅れで来た。アラブの世界は全てインシャラー(神様のおぼし召し)なのである。ヨルダンの街を出てほどなくすると、小さな岩と言った方が良いような石ころばかりの景色になった。国境の手前60kmほどの街、アルルウェイシャーで休憩。食事をとった。ナンとライスと豆のスープ、シシカバブー、4人前だけ注文したが全員満腹。

 10:50ヨルダン国境着。出国手続き。出国側にはイラクに運ぶ中古車、ブルドーザー等の機械がたくさん並び、入国側にはイラクからのほし草、タンクローリー等が並んでいる。警察官の写真を撮って怒られ、「お前はアラブ人か?」と聞かれ、「ラー(No) JAPANESE」と答えたことも報告しておく。ヒゲを伸ばしておいたので、アラブの人と思われたらしい。11:20無事出国。あと1kmでイラクだ。

 11:25イラク国境に着いた。ワリードさんとも無事会えた。フセイン大統領の写真と国旗が並ぶ。待ち時間トイレに入った。ヨルダンの国境は汚かったが、イラク国境のトイレはとてもきれいだ。荷物検査が始まった。平和のために来たと言うと、Wellcome!!と言い、検査も随分と楽になった。ただ、カメラとビデオは全部集められ、時間をかけてチェック。終わると次はバスの下まわりのチェック。持ち込みのドルのチェックが終わった。エイズチェックは1人50$なのだが、我々は受けなくて良くなったらしい。後はパスポートが戻ってきたら、入国審査終了となる。

 12:55全て無事終了。イラクに入国。全員の時計を1時間進める。イラク時間13:55。と思ったら、まだチェックがあった。数メートルずつ車を進めては、何かのチェックが入る。これでも驚くほど順調に進んで○○○。

 (◎イラクからヨルダンへ○○○○○○は無料。半分は医療品等と物々交換らしい)

 次は車への給油。100リットル○○○○。さすがにアメリカのせいで石油を輸出できずにいる国だ。

本当に全て終わり、14:15(イラク時間)。12月に来たグループは12時間かかったらしいが、1時間半で通過!!

 イラク国内の高速道路を走行。12年前には避難民たちが1列に狙い撃ちされた道だ。周囲は全くの平たい砂漠で隠れる場所など全くない。その中を通った1本道。米軍はその道を逃げる人々の1番前の車を攻撃し、後ろで動けなくなった車をゆっくりと狙い撃ちしたのだ。これは戦争ではない。どう表現してもしきれない、残忍な大量殺戮でしかない。
15:00(イラク時間)昼食のため休憩。チキン、マトン、シシカバブー、ポテト、スープ。
ここでも3人前で全員満腹。全員食べ終えたが、案内の方が祈っているので、しばらく待って15:45スタート。

 17:20この数時間、景色が変わらない。夕日が沈む。急に気温が下がり始めた。
 19:20街の明かりが遠くの方に見え始めた。
 19:35ユーフラテス川を渡る。街の明かりは川岸の集落だった。世界三大文明の発祥の地だ。
 20:15雨が強くなってきたのでスピードを落とす。「安全運転で。」と言うと、「インシャラー」と返事が返ってきた。これが、アラブ世界だ。
 20:50バグダッドの明かりが見えてきた。
 21:00サダムタワーが見えた。湾岸戦争の時に壊され、また作られたという。高さ100mのタワー。無名戦士の墓地の横を通過。バグダッド市内に入る(21:05)。チグリス川を通過。この橋も湾岸戦争時に壊されたが、再建されたもの。
 21:15ホテル着。遠かった。13日の17:25に沖縄を出て、何時間たっただろうか。日本時間は16日午前3:15のはずだ。
 両替をする。US$で50$を9万イラクディナール。250ディナール紙幣360枚。札束だ。財布には入らない。

 結婚式の一団が入って来た。ハサンとジャレルの二人だ。サインをもらった。この二人の幸せを奪ってはならない。
明日はシェルター。

 夜のミーティングで○○○○○○島田団長に電話があったことが報告された。ヨルダンの日本大使館からである。18日の夜に大使が会食をしたいと言う。米国から独立しきれていない日本政府の大使の招きを受けるわけにはいかない。断ることにする。それにしても、さすが大使館である。我々のスケジュールを全て知っている様で、島田団長に直接電話がかかってくるとは・・・・!!
ホテルからFAXを送ろうとしたが、国際FAXは無理だと言う。情報管理するために、センターを設置し、送信したFAXは1部ずつ保管するらしい(未確認)。

 昼間しか開いていないというので明日チャレンジする。パソコン通信も無理だった。

 8:30AMアメ○○○○○○○○○

 車には、こちら側のガイドのほか、国の観光省のガイドが乗り込む。マスコミが入る場合、カメラとビデオは観光省が管理し、1日数百ドルを取られ、なおかつ毎日観光省が持ち帰るらしいが、我々一行は特別にカメラ等を自由に保持することが許可されている。ただし、撮影して良い所とダメな所は厳密に区分され、その辺の説明は我々のガイドは口をつぐみ、役人に任せている。これもイラクの実態なのだろう。

 シェルターに近づいて来た。この周囲は全く軍事施設が無い。一般住民のシェルターである。

 シェルターの案内人インチサーラさんにお話を伺う。まずシェルター。ここはシェルターだったが、爆撃後はミュージアムとして整備されている。墓地のように○○○○場所とされている。

 1995.2.23、4:00AMに爆撃を受けた。2発の○○○照準の2tの爆弾を受けた。○○○○○○2発目が○○○○○○をあけた。2発とも全く同じ○○に当たっていて、1発の攻撃のように見えるが2発だ。2発目が炸裂した時には、3段のベットで埋まっており、朝4時だったので、皆寝ていた。主に上の部分には子どもたちが寝ていた。2tの爆弾が炸裂した時、子ども達は飛び散り、シェルターの外に手足が散乱した。このフロアーだけで480人が亡くなった。また、下のフロアーの方々は生き埋めになった。

 ケリーハさんと写真を撮った。

イラク派遣団報告No.5
1/17(金)AM2:40(日本時間) FAX受信 FAXの画質が悪く、一部解読不可能部分あり。

 アメリア シェルターの地下へ降りた。さらに説明を求めると「日本人は時間が無いと言って1Fで写真だけ取って、15分で帰るのに?」と驚いているので、声をそろえて「我々は沖縄だ!」と声をあげた。地下には消火時の水が2m近くたまった跡が壁に残り、髪の毛や皮膚などが貼り付いたままになっていた。「誤爆」とは何か?レーザー誘導の爆弾を(恐らく劣化ウラン弾)2発も同じ場所に撃ち込むのだから、シェルターだったことは分かっていたはずだ。このシェルターには母親と幼い子ばかり1200名余が避難していた。男たちは兵士となっているか、家に残って家を守っていたと言う。ここでも犠牲になったのは、女性と子どもたちだ。

 昼食の予定だったが、急に赤新月社(アラブ赤十字)に行けることになった。ここに行けるということは、赤新月社の病院に見学に行けるということだ。とてもラッキーだ。

12:50赤新月社の総裁と面会。

 総裁の言葉。「日本の広島・長崎を我々は知っています。アメリカによる経済制裁で170万人が死にました。日本のことを思うことができます。不幸なことに、欧米のメディアは、アメリカのプロパガンダに乗って、本当の事を見ようとしない。劣化ウラン弾の後遺症は、今もイラクの人を苦しめている。こうしたことは、国際法に違反します。他の人道的団体が抗議を続けています。イラクだけでなく、他の国々も同じ様にアメリカによって傷つけられたことを残念に思います。イラクの人々も日本人と同じ様に平和と愛を大切に思っています。イラクは6千年の歴史を持っている。日本と同じ様に。改めて、ようこそイラクへ。」

 島田団長の挨拶−。派遣団の想いを伝える。総裁「我々は、全ての人々と対話出来る。アメリカの国民も例外ではない。ただ、リーダーがおかしいだけだ。」

 赤新月社の建物○○○○幼い子ども2人を抱いた夫婦が近づいて来た。子どもの名前はディアナとダニー。ダニーはぐったりとして動かない。目も見えないと言って困って助けを求めて来た。最も情けない形ではあるが、全員でお金を出し合って、寄付をした。これで良かったのだろうか。でも、ディアナとダニー、そしてその両親と、しばらくの時間を過ごすことが出来たという意味では、良かったとしておこう。

 1:50やっと昼食。サダム・タワー。100mの展望で1時間で1周するレストラン。上から市内を一望出来るので、全員のカメラを車に置いていくよう命じられ、かなり厳密にチェックを受けた。敷地内にフセイン大統領の銅像があり、湾岸戦争に参加した国々の首長たちの顔を踏みつけるように立ち、周りには撃墜した米軍機のものであろう残骸が、大統領を取り巻くように置いてある。

タワーに登ると、360度の平たいイラクが見える。家々は「アラビアン・ナイト」の挿絵に出て来そうなものばかりだ。とても、とてもきれいな街だ。チグリス川とヤシ並木、所々にモスクが建ち並ぶ。多くの子どもたちとしばらく戯れる。

 カズミーヤのゴールデンモスクを見学。

 夕方の街角で、○○○○○パフォーマンスをした。一瞬でものすごい人が集まり、しんやさんの「イヤサッサ」は大合唱。持ち込んだ写真を紙芝居の様に、沖縄の現状を説明。「イラクを攻撃する基地が沖縄にあることを、本当に申し訳なく思う。」「我々は、アメリカにイラク攻撃をするなと訴え、今、沖縄ではハンガーストライキをしている。」と話すと抱きしめてくれた。心は通じたと思う。色々と制限があるイラクで、沖縄独自のパフォーマンスが出来るか最後の最後まで心配だったが、何とかやり遂げることが出来た。ただし、これは第1回目のパフォーマンス。今夜のものと金曜日の午後の、あと2回を予定している。

イラク派遣団報告No.6
1/18(土)AM1:00(日本時間) FAX受信 FAXの画質が悪く、一部解読不可能部分あり。

 PM9:00にホテルに戻る。2:00AMのはずが、インシャラーで1:00AMになり、またまたインシャラーで10:00PMになったセレモニーに出発する。多少疲れてきた人もいるようだが、まだまだである。夕方にパフォーマンスをした所に人が集まっている。「革命広場」というそのスペースにマスコミやアラブの人たちが100名ほどいる。何かが始まったらついて行動しようと待っていたら、ガイドの方が「時間がある様なのでパフォーマンスをしては?」と言ってきた。他団体の集会の場で、最初に行動し始めることに多少の躊躇を感じつつ、幕を広げ、歌を歌い始めると、すぐに人が集まって来て、夕方にいた子どもたちは、かけ声を大きな声で繰り返してくれた。しかし「イヤーササー」に「アーイヤ」が本当なのだが、イラクでは「イヤーササー」「イヤーイヤー」が定着してしまった。おまけに秋山さんが踊り出した。これらが世界に紹介されても良いだろうか?などとほほえましくも素晴らしい一時が過ぎた。しばらくして片付け始めると、その場の責任者らしき人が来て、会場の出入口でずっとパフォーマンスをするよう求められ、結局「革命広場」には「イヤーササー」「イヤーイヤー」と、みょーなかけ声がこだまし続けた。11時近くに、今年はもうこれで終わりらしいというので???と思いつつ「インシャラー」なのでホテルに戻ることにした・・・が途中、デモ隊を発見。どれほどの数だろう人のうねりがある。イラクを始めとする、アラブ人たちの激しいデモ隊だ。しばらく加わったが、激しすぎる。たまらず少し脇に寄ると、ベルギーとドイツのNGOのグループを発見!一緒に並んだ。

 フジテレビとNHKのクルーは、イラクの最高級ホテルに泊まり続けているが、デモ隊の取材は、イラクの人に下請けに出したようで、どちらも日本人スタッフは来ていない。夕方にはNHKの日本人スタッフを見かけたので声を掛けたし、フジテレビのクルーにもメッセージをホテルに残したが、連絡はない。何を取材しているのだろうか。共同通信も何の連絡もない。デモ隊は、チグリス川沿いに歩いて、国連旗のたなびく建物の前で止まり、それぞれのメッセージがより激しく訴えられはじめた。

 デモ隊の動きはより激しくなり、太鼓の音や叫び声が鳴り響く中、火の手が上がった。星条旗とイスラエルの国旗が燃やされたのだ。一団の声はさらに激しくなった。それぞれのパフォーマンスが繰り広げられ、デモ隊の心が一つとなり、最高潮を迎えている。

 しばらく参加していた我々は、もみくちゃにされてバラバラになっていたが、やっとの思いで一箇所に集まり、帰ることにした。長い1日が終わろうとしている。

 明日は、さらにバビロンを回り、子どもたちとの出会いを行う。

 ヨルダンで購入したビスケットと、沖縄から持ってきた鉛筆をいよいよ配る。どんな出会いがまっているだろうか。

 ホテルに帰ってきてテレビをつけると、さきのデモ隊の様子が映っている。我々の姿も何度も何度も出てくる。イラクの国営放送で放映されただけでも意味があるかもしれない。そういえば、デモのスタートの時、アラブの人々を統率している人がマイクで「オキナワ ジャパン」と言っているのが聞こえた。恐らく、我々が紹介されていたのだと思う。

 忘れるところだったが、もう一つ記しておく。我々の留守中にヨルダンの日本大使館の方がホテルに来たらしい。一人一人に大きな封筒にイラクの観光案内が入っている。何を考えているのだろう。夕食のお誘いを、未だに正式にお断りしていないが、ニュースに流れた我々を見たら自然にキャンセルになったのではないだろうか。それにしても「観光案内」とは・・・。

 さらにもう一つ。ドイツのNGOの人たちは、沖縄に米軍基地があることは知っていたが、多数、しかもあれだけ大きなものがあるという事は知らなかった。たまたまかもしれないが、わざわざイラクまで来るNGOのメンバーが知らないとなると、沖縄はもっともっと現状を世界にアピールする必要がある。

◎番外 大宮レポート

 夕刻のアピール行動の終わり頃に「ささいな出来事」があって、警察署に私(大宮)と通訳白井氏そしてワリード氏が行きました。極めて簡単にそこで感じたことを書きます。

1.路地にあったその警察署は、一見それとは気づかないくらい質素なものだった。2階建てで室は数室くらいか?コンクリート壁も色あせていた。

 前半は署長室で事情聴取を受けていたのだが、暖房はなく、小さな赤色灯ストーブが1つだけ。後半は別室(たぶん副署長室)に移ったのだが、その部屋は天井の蛍光ランプすらなく、壁の明かりだけでスプリングだけの簡易ベットにはダンボールが敷いてあった。

 政府機関でさえ、この品不足は「経済制裁」の与えている深刻さを端的に示しているのではないか?ちなみに調書は更紙にカーボン紙であり、しかもその紙代を支払わされた。

2.事情聴取をしていたのはたぶん副署長だったが、控えている下部警官はずっと立っていてそしても上宮の前で平気で煙草を吸っていたりして、かなりフランクな感じでいた。「独裁国家」と言われているが、上下関係が意外とこだわりなさそうな事に少しびっくりした。下部警官は上官に必ず敬礼は一応していたが。

3.副署長は英語はできないようで、従って事情聴取はアラブ語⇔英語⇔日本語と間にワリード氏と白井氏が通訳に入る珍しいものだった。ただ、ほとんどは事情を良く知っているワリード氏が対応し、私たちはたまに必要に応じて質問されるだけだった。なお、私の名前の「いくお」は何度言っても副署長には「いきお」と発音し、最後までそうだった。これは子音だけで表記するという、アラビア文字の関係かもしれない。

4.対応はそういばってはおらず、これは「ささいな出来事」との関係だろう。1時間半くらいのことでした。


 17日(金)今朝は、英語の横断幕にアラビア語を書こうと思っていたら、ホテルマンたちが集まって書いてくれた。ファックスは送信できなかった。数日前からインターネットにもプロテクトがかかっているらしいが。今日は、イスラムの安息日。街中に人が溢れている。仕事は休みだが、店は開いているからである。

 車中の話し。ガイドのロロさんのお連れ合いは11歳年下(?派遣団の誰かと一緒)で16歳の時に結婚したらしいのだが、バグダッドから車で1時間ほどの所で生まれ育った彼女は、結婚するまで冷蔵庫を見たことがなかったという。働き者の彼女が、冷蔵庫まで水をかけて洗うのでハラハラしたと、笑いながら話して下さった。

 車は、バビロンに向かって走行中、バグダッドを出た途端に町並みが変わり、羊の群れがいたり、ロバに乗った人がいたりする。しかし、道路の状況は非常に良い。

 12:45田園地帯の中にいきなり戦車が並んでいる。やはり戦時下なのだ。車はバグダッド南のアメリカが勝手に決めた飛行禁止エリヤを南下している。カルバリに向かうためだ。

 1:00バビロン着。

 バビロンを出て、カルバリへ向かう。馬車やロバ、羊の姿を見ることが多くなった。所々に池がある。ユーフラテスを越えた。土の世界ばかりが広がっているせいか、川や池の水の色が強烈に目に飛び込んでくる。鮮明な青である。3:35カルバラ着。シーア派の聖地。

 金色の寺院にものすごい数の人が集まっている。巡礼である。時折、棺おけを担いだ一行も通る。いわゆるストリートチルドレンの多い場所だ。食事の後、クッキーを配ることにした。何が起こるか予想がつく。恐ろしい気もするが、子どもたちに、クッキー一つでも手渡したい。車からクッキーの箱を一つずつ出す。そのたびにものすごい騒ぎになる。なるべく別々の子に手渡すが、せっかく受け取っても他の人に奪われて泣いている子もいる。悲しい現実だが、我々の見ていない場での分配も必ずあるはずである。ここはイスラムの国だ。それを信じて配る。

 途中まで配ったが、収集がつかないのでやめる。ガイドの方も大きな声を出し始める。私が大きな声で「ヤッラビーナ」と言うと、みんな一瞬であきらめムードになった。「ヤッラビーナ」とは「行くぞー!」という意味。車まで押しかける子たちもいたが、別れを告げて帰路についた。車中には何とも言えない疲労感が漂っている。石油の埋蔵量が世界3位のイラク。教育も医療も無料のはずのイラク。

 戦争さえなければ、この子たちはこんな状況ではなかったはずだ。

イラク派遣団報告No.7
1/19(日)AM1:50(日本時間) FAX受信 FAXの画質が悪く、一部解読不可能部分あり。

 カルバラからバグダッドへ帰ってきて、皆かなり疲れていたが、沖縄のメッセージを伝えるためにキャラ○○サイド・ストリートでパフォーマンスを行った。朝に英文の横断幕にアラビア語でメッセージを書いてもらい、アラビア語のチラシも600枚も増し刷りをしていたので、みんなの反応は良かった。横断幕の文字を指さすと、うなずきながら親指を立ててくれる。チラシは、向こうから取りに来てくれるので配るのは楽だ。チラシを真剣に読んでいる人には、沖縄の地図や写真を見せて想いを伝える。すると、「Wellcome」とか「サラーム」と反応が返ってくる。しんやさんの歌と秋山さんの踊りは、どこに行っても好評だ。ほんの15分のパフォーマンスだったが、数百名を相手にヘトヘトになる。でも、確かな手ごたえがある。やはり、イラクまで来て良かった。本当にこの人達を殺してはならないという想いを新たにした。

 夕食は、一度くらいイラクの伝統的な所では?というガイドの方の勧めもあり、生演奏付きの大きな店に来た。そこはアルコールも出るらしい。数名がザワザワし出したが、イスラム文化を大切にしようと確認し、水を注文すると、共にいたイラクの人たちは、うれしそうに「Good!」と言ってくれた。おまけに私は「あなたはクリスチャンなのに、なぜ飲まないのか?」と言われたが、想いを伝えると、再び親指を立て「Good!」と言ってくれた。彼らのクリスチャンのイメージは、酒飲みばかりらしい・・・。

 夕食でのんびりしているので、イラクの通信事情を説明しておく。

 こちらからのFAXは、FAXセンターを何回もまわり、やっと発信という感じである。一国に国際回線が1本だけらしい。厳しい状況である。マスコミ各社は独自の衛星回線を用意しているらしい。

 イラクの伝統料理と生演奏で、アラビアン・ナイトは更けていく。あっ!、まだ9時前だった。

 今日1月18日は、世界的に反イラク戦争の集会がもたれる予定の日だ。沖縄の集会用に、昨日メッセージをFAXで送ったが、届いただろうか。こちらから確認のTELを入れようとしたら、1分間300ドルと言われ、それでもつないでくれと言ったが、1時間以上待ってもつながらないのであきらめた。赤新月社の小児病棟を訪問し、午後は市内各所でパフォーマンスの予定。今日か明日、こちらの政治的状況が許されれば、国連の査察の人たちの事務所の前で「アメリカの御用聞きになるな!」「あなたたちに、イラクの人々の命がかかっている」と訴えたいと思っているが、それは難しいかもしれない。

 今日の行動には、森住カメラマンが同行する。

 9:55 UN事務所の前で車を止めると、査察の係官たちが帰って来たところだった。思わず声を出したくなったが、我慢して写真だけを撮る。

 小児病棟を訪問した。何と書いたら良いのだろうか。入院してくる子どもの75%が物資不足のために治療を受けられずに死んでいくという。癌、白血病、未熟児、・・・・経済制裁のしわ寄せは、ここでも一番弱い者のところに集まっている。写真係として代表して撮影することになっていたが、なかなかシャッターを押せない。苦しんでいる人々の所に急に外国人の集団が訪れ、挨拶をし、病状を聞き、名前を聞いて、写真を撮って帰っていくが、自分たちの苦しい状況は何も変わらない。母親たちの疲れた目が、私たちの心に痛いほど突き刺さる。それでも多くの人々が、声を掛けると微笑み返してくれる。何と言うやさしさだろう。世界が、日本が苦しめているのは、この人たちなのだ。私の手の指を弱々しく握った幼子の顔、手の温もりは、忘れることが出来ない。否、忘れてはいけない。

 ムスタンスィリア大学(バグダッド大学に次ぐ国立大学)で、アピール行動を行った。今回は大騒ぎするだけでなく、話し合いをすることが出来た。戦争が始まったら、戦争に行くのか?と尋ねたら、「戦争は、空から降ってくる。我々は戦争に行くのではない。」と言われた。又、別の学生に、戦争についてどう思うか?と尋ねると「インシャーラー(アラーの思し召し)」と答えた。インシャーラーは、テーゲーではなく、深い深い信仰の言葉なのだ。「爆弾が落ち始めると、お前たち、帰れないぞ!」と笑いながら言う彼らの現実は、ジョークでは済まされない。

 ◎ガイドの○○さん(←FAX不明箇所ではなく、匿名を表す)は、家族の「ストーブが欲しい」と言われて、5年待たせてあるという話を聞いた。電気ストーブはあるが、停電が多く、使い物にならない。戦争になると、発電と製油がやられるので、多くの人が210リットル入りのドラム缶を買う。しかし、明日訪れる家は、そのドラム缶も買えない。(1万7千ディナールが出ない。)

 1月3日付けの朝日新聞の国際面に「制裁下なのにあふれる物資」というタイトルの記事(国末憲人)が掲載された。この記者は何を見たのだろうか。確かに外見上は物がある。しかし、庶民には買えない。

 記事は「『経済制裁』に付きまとう悲惨なイメージは、市内で見る限り乏しい」とくくられている。こんな記事を日本の一般の人々が読んで信じるとは、何と恐ろしいことだろう。

 夕方から「革命広場」」で再びアピール活動を行った。子どもが少なかったこともあって、いきなり盛り上がるということはなかったが、ガイドの方がアラブ語で我々のアピールを通訳して下さり、次第に輪が広がり、盛り上がった。

イラク派遣団報告No.8
1/20(月)AM10:35(日本時間) FAX受信

 毎日ホテルに帰ってくると、反省と翌日の打ち合せが行われる。「今日(18日)の反省」と島田団長に言われた途端、皆、口をつぐんだ。しばらくの沈黙の後、島田さんが「病院でビデオをまともに撮れなかった。」と詫びた。私も、私たちを送り出して下さった多くの方々に報告をしなければならないという使命感から数枚の写真を撮ったが、それ以上、撮ることができなかったと報告した。詫びつつも、しかたないと思った。7名の想いは同じだと思うし、沖縄の仲間も理解してくれると信じる。あの状況で、しかもあの関係性の中で、ファインダーを覗き続けられるとしたら、そっちの方がおかしい。我々は、どうつくろっても見物人の一行に過ぎない。どんな想いを持っていたとしても、助けるどころか、苦しめている側の人間なのだ。街並みや挨拶を交わす人々のまなざしと出会うたびに、今まさに破壊されようとしている街、今まさに殺されようとしている人々という現実が、強く強く覆いかぶさってくる。

 19日(日)、今日はサダムシティーという一番貧しい人々の街を訪れ、白血病と闘い続けている家族を訪問する予定だったがやめた。多くの「ツアー」がこの一家を、貧困と病による苦しみの象徴として訪れ、まるで動物園のパンダ状態だと言う。少なくとも、我々はそんなことはしたくない。我々のイラク訪問自体が、多かれ少なかれそのような要素を持っているのだから、これ以上、それを続けることは止めようということになった。そう決めた我々を、ガイドの方が幼稚園に連れて行って下さるという。特例中の特例である。

 最初に訪れたのは、アルモアスィム幼稚園という私立の園だ。職員5人、園児80人、月謝1万ディナールで、お金のない家は、5千ディナールだと言う。中に入ると、国家への忠誠を誓っているのだろうか、皆敬礼をして、何かを一斉に言っている。それが終わると、我々を見つけて騒ぎ出す。しかし「サラーム・アレイコン」と言うと、すぐに丁寧に返事が返ってきた。クッキーを園長先生に差し入れし、折り紙をプレゼントして、折り紙教室が始まった。あとは、しんやさんの歌でダンス、ダンス、ダンス。一緒に楽しんでいると、年少クラスのリーダーのタックアがはにかみながら近づいて来た。先生も一緒である。何だろうと思っていると、なんと、タックアにプロポーズされてしまった。もちろんお礼を言いつつ断ったが、一緒に2人で写真を撮った。

 しんやさんの歌が一通り終わったので、今度は園児達に歌ってもらうことにした。歌というより何かをリズムを付けて言っている感じである。意味を聞いて納得。「アメリカの望みは何か?戦争か、平和か?」等々のスローガンと言うか、プロテストと言うか、そのようなものを叫び続けているのだ。こんな歌を幼い子に歌わせるのは、誰か。何か。米総領事館の主席領事なら、迷わず「フセインが悪い」と言うだろう。では、我々は何というのか。他の誰かを責めるより、この状態の原因を作った国と親しくし、言いなりになり、そして今も許している自分の責任を問おう。そうしない限り、いつも「あいつが悪い!」で終わって、そのしわ寄せは、弱い者のところに来るのである。それにしても、この幼な子たちの瞳の美しさは、何にもかえがたい。全員、ノックダウンである。しばし、幸せな時間が続いた。

 園を後にして車が走り出すと、ガイドの方が言った。「もう一つ幼稚園をまわるか?」全員賛成して、バスは次の園に向かった。アララビ幼稚園だ。ここは、労働省の管轄の幼稚園だと言う。私立に続いて公立の幼稚園までも、アポなしで案内して下さるなどと言うことは、本当にまれなことらしい。我々がよほど信頼されたということらしい。そう言えば、アピール行動の時に人を集めるのを自然に手伝って下さり、終いには大声で通訳を自発的にして下さった。我々も、最初は見張りの役人程度にしか思っていなかったが、次第に人と人として出会ってしまっていたのだ。そうそう、幼稚園訪問で忘れてならないのは、いつも一人でカチャーシーを踊り、笑いをもらっている秋山さんだが、今回は出遅れた。イラクのオバーが一人踊り出たのである。ついで子どもたちも踊り出た。もちろん秋山さんも踊り出す。吉川さんも踊り出す。楽しい・・・、しかしオバーの踊りはやはりきれいだ。少女の踊りもオリエンタルな雰囲気いっぱいですごい。参った。

 午後は市場を見学し、多少の買い物をした。豊見山さんと一人の少年の感動的な出会いがあったが、それについては豊見山さんの報告を待とう。

 夕方からは、最後のアピール行動(6回目)を行った。初めての場所でなかなか思うように人が集まらなかったが、それでも最後は50名くらいを前に行った。1回もできないかもしれないという、政治的に厳しい状況の中で、6回も行うことが出来たのは、本当に良かったと思う。

 イラク最後の夕食。何か、いつものように喉を通らない。ホテルに戻り、荷物を取って空港に向かう。ホテルマンの数人が「私はOKINAWAを忘れない。寂しくなります。私たちを忘れないで。」と挨拶された。ガイドの方と二人になる時間があった。通訳の方に頼んで最後の挨拶をした。「私は沖縄に帰ります。必死で戦争を止める努力をします。必ずまた来ます。それまで生きていて下さい。」涙が出て、声がつまり、途切れ途切れの挨拶だったが、私にとっての精一杯の挨拶だった。彼は、「泣くな」と言いながら、「沖縄の気持ちが分かった。うれしい。私たちは友達だ。」「平安があなたにあるように。」と言ってくれた。

 出発間際に韓国からの観光ツアーの一団が入ってきたのには驚いたが、ワイワイと互いに知っている限りの言葉で挨拶を交わし、我々は出発した。程なくして、バグダッド空港に着いた。別れが本当に苦しい。それでも互いに抱きしめ合い、頬にキスをし合って別れを告げた。荷物などのチェックが非常に厳重だ。荷物は2度のエックス線検査を受け、さらに全部を開いて検査を受けた。人間も何度もチェックを受けた。最後は、飛行機に乗るタラップの下で荷物検査を受け、タラップの上でボディチェックを受けて、やっと機内に入れた。

 アンマン(ヨルダン)に着くと、時計を1時間戻し、荷物を受け取る。アンマン空港のチェックはそんなに厳しくない。ロビーに出ると、ヨルダンのスタッフが待っていて下さった。午前2時過ぎにである。改めて、この旅が多くの方々に支えられていることを思わされた。アンマンパレスホテルに着いたのが午前3時。午後1時には再びアンマン空港に向かい、ドバイ→関空→那覇へと向かう。

疲れたという思いもあるが、本当の闘いはこれからだ。
バグダッドで出会った彼ら、彼女らを、絶対に殺してはならない。
私たちの力でそれは止められるはずなのだ。

これで、イラク派遣団の速報レポートを終了します。
帰国して、レポートを整え、きちんと皆さんに報告いたします。
お支えいただいた皆さん、ありがとうございました。
しかし、くどいようですが、闘いはこれからです。互いに手を取り合ってがんばりましょう。
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